國分功一郎『スピノザ『エチカ』(100分 de 名著)』
スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2018/11/24
- メディア: ムック
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読書会の課題本、スピノザ『エチカ』が難しすぎて、自分には理解できないことは想像に難くないので、まずは解説本から読んでみた。難しい本は解説本から読みましょう、というお決まりのパターンです。
國分功一郎は、スピノザの哲学をありえたかもしれないもう一つの近代を示す哲学だと言っており、読む前はなんのこっちゃと思っていたけれど、読み終わったあとは、それがしっくり来た感じ。*1
この本を読むだけでも、自分の考え方が、知らず知らずのうちに近代に作られた物の見方(考え方)に縛られていて、それを自明のものして受け入れているか再認識させられる。そして、スピノザ『エチカ』を読むと、そういう考えがより深まりそうだなあと、読むのが楽しみになりました。(もう一冊くらい、入門書を読む予定だけど・・・)
スピノザ『エチカ』を読むことで、自分が当たり前に考えている物の見方(考え方)を相対化し、人によっては、ある種の生きづらさみたいなものから解放されるきっかけにもなるんじゃないか、なんて予感がする。
以下、気になったところの抜粋とメモ。
哲学者とは、真理を追究しつつも命を奪われないためにはどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人です。心理は必ずしも社会には受け入れられないし、それどころか権力からは往々にして敵視されるのだということを十分に理解しつつ、その上で学問を続けるのが哲学者なのです。*2
哲学者は夢見がちな人々などではなく、自分で自分の身を守るようなたくましさを持っていたという話。さらにスピノザが釣り好きで、自分の護衛の兵士を飲みに連れて行って、釣りの話で彼らを夢中にさせた、というエピソードも素敵。
すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは髪を自然と同一視しました。これを「神即自然」といいます*3
「神は無限である」というスピノザの「汎神論」に関する記述。神は無限で、外部がない、という話は、マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』を思い出した。マルクス・ガブリエルは、もし世界が存在していたら、その外側が存在してしまうはずで、という話をしていた。そして、世界は存在しない、ただし、世界以外の全ては存在する、という命題を本の中で提示していたのだけど、忘れているので、読み直さないといけない・・・汗。
自分の外側にある原因(ねたみの対象)に自分が強く突き動かされてしまっているわけですから、自分の力を十分に発揮できない、つまり活動能力が低下しているのです。*4
スピノザの感情論について。自分が誰かをねたんでいるとき、自分の感情が妬みの対象によって支配されてしまっているので、自分の力を十全に発揮できていないということは、誰もが実感できることなんじゃないかと思う。あとのスピノザの自由に関する話にもつながる記述。
まず最初に見ておきたいのが、ラテン語で「コナトゥス conatus」というスピノザの有名な概念です。あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向を持った力」と考えればいいでしょう。*5
あらゆるものが持っている、そのものの、性質。國分さんは、恒常性(ホメオスタシス)のようなものだと捉えると分りやすいと言っている。
おそらく優れた教育者や指導者というのは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押し付けるのではなくて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人なのだと思います。*6
スピノザ的教育論。エイドスとは、見た目のこと。スピノザ的に考えれば、見た目だけを見るのではなく、生徒や選手の本質的な部分を見て、それぞれの選手に応じた指導をするのが大切。理想的だけど、公立の学校に限っていえば、今の日本では教員に対して生徒の数が多くて、生徒一人一人のコナトゥスを見てあげられるような教育にはなっていないと思う。
神は自然と同一視されるのであり、その自然は宇宙と呼んでもよいと言いました。実は、私たちは神の中にいるだけではありません。私たちは神の一部でもあります。万物は神なのです。*7
私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する様式であると考えられます。*8
ちょうど副詞が動詞の内容を説明するようにして、私たち一人一人は神の存在の仕方を、説明しているというわけです。*9
スピノザの用語と、汎神論に関する解説。神は宇宙・自然であり、その外側はなく、人間も含めた万物もその中にいる。だから、神は自然であり、万物である。人間やそれ以外の万物も、神の一部である。
万物は色々な在り方で、神の力を表現している。たとえば、太陽は光・熱を発し、地球に影響を及ぼすし、水は植物を育てたり、川になって流れて地形を変えたりする。そのようにして、ありとあらゆるものが神を表現している。
副詞のくだりは、神が名詞や動詞のようなものだとすれば、万物はそれを飾る副詞のようなものだ、という話。副詞はそれだけでは存在できないけど、動詞を説明することで存在することが出来る。面白いたとえだと思った。
少し気になるのは、もし万物が神の表れだとすれば、この世に存在する「悪」(この悪も人間が考えることだから、神にとって善も悪もないのかもしれない)は、どういうことなんだろうか?たとえば、殺人を犯す人間も神の表れだとするなら、それは聖書の教えと矛盾しないのか気になった。
ちなみに汎神論といえば、宮台真司が、TBSラジオ「デイキャッチ」のボイスの中で解説していた。ここでも、マルクス・ガブリエルの話が出てくる。
デカルトは精神と身体を分け、精神が身体を操作していると考えました。巨大ロボットの頭に小さな人間が乗って操縦しているイメージですね。それに対しスピノザは、精神が身体を動かすことはできない、というか、そもそも精神と身体をそのように分けること自体がおかしいと考えました。*10
精神と身体で同時に運動が進行すると考えたのです。これを「心身平行論」と言います。*11
精神が身体を操縦している、というデカルトの「心身二元論」に対して、スピノザは精神と身体は不可分であるという「心身平行論」を唱えた。ずれた例えかもしれないけど、運動をしていると身体の状態が精神に影響を及ぼすということはよくある。ランニングにおけるランナーズハイみたいに。
あるいは、宮台真司は、オウム真理教が信者を勧誘するために催眠の技術を使い(身体的な刺激)、神の声が聞こえるような体験をさせたということを話していた*12。また、カウンセラーの高石宏輔は、コミュニケーションがうまくいかないのは、身体の緊張、心理的な緊張につながっているからだ、と話していた。これらを考えると、心身平行論はリアリティがあると思う。
与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。*13
必然性に従うことが自由だと言っているのです。ふつう、必然と自由は対立します。必然なら自由ではないし、自由なら必然ではない。ところが、スピノザはそれが対立するとは考えません。むしろ、自らの必然性によって存在したり、行為したりする時にこそ、その人は自由だと言うのです。*14
魚を陸にあげれば死んでしまいます。人間の身体や精神にも、これと同じような必然性があるということです。*15
人は生まれながらにして自由であるわけではありません。人は自由になる、あるいは自らを自由にするのです。*16
私たちは「身体が何をしうるか」を知らないからです。*17
自由の定義を読み解く上での二つ目のポイントは、自由の反対概念が「強制」であることです。*18
強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押し付けられている状態です。*19
この青年は親に対して直接に復讐を果たすことができない。だからその代わりに自分の心身を痛めつけている。そのような状態にある時、この青年はかつて受けた虐待という外部の圧倒的な原因に、ほぼ自身の全てを支配されています。*20
スピノザの自由について。スピノザによれば、人は自分の持つ必然性(その人自身の性質、ある意味で制約)にしたがって、自分の力を発揮できるときに、自由である。反対に、自分の本質が発揮できないとき、強制されていて、自由ではない。
たとえば、最後に引用した青年は、親から痛めつけられて育ったせいで、家を捨てて軍隊に入り、自分をわざわざ過酷な状況に自らを追い込む。このとき、青年は親への復讐に取りつかれて、自分の本質を発揮できずいるため、自由ではない。
興味深いな、と思うのは、スピノザが強制という話をするときに、「必然的である、あるいはむしろ強制される」と、「必然的」を「強制」に言い換えていること。*21 偶然だと思うけど、自由の条件である必然性の裏返しが、強制であるともとれないか。必然性は、人を自由にもするけど、受け入れることが出来なければ、人を強制された状態もする、とは読めないか(誤読だろう)。
個人的に、必然性という話を知ったときに連想したのは、二村ヒトシの「心の穴」だった。二村は、人間の性質を、成長過程で親に開けられた「心の穴」の表れだと言った。そして、その心の穴は、人の魅力にもなり、欠点にもなると。そして、自分の心の穴と向き合えれば、自分を傷つけるような人に恋してしまうような状態から抜け出すことが出来ると。*22二村の心の穴と、スピノザの必然性は似ていると思う。
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こう考えてくると、スピノザの自由の概念は、どこかで原因という概念と結びついていることが分かります。*23
神の変状であるという意味では、私たちの存在や行為は神を原因としています。私たちは原因ではありません。*24
神という原因は、万物という結果において自らの力を表現していることになります。*25
先の原因/結果の概念を用いるならば、この定義を次のように言い換えられることになります。私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である*26
スピノザの能動/受動について。スピノザは能動/受動を行為の方向で表さずに、行為の原因が何かに注目した。そして、人は自分が自分の行為の原因になっている時、能動である、と考えた。國分功一郎はこれを、カツアゲの例を使って説明している。カツアゲの被害者は、自分から財布を出しているように見えるけど、加害者に支配されて財布を出しているので、能動的ではない。うまいたとえで、すごくわかりやすい。
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スピノザの自由とは能動的になることであり、能動的であるとは行為において自分の力が表現されていることでした。したがって、スピノザの自由とは自発性のことではありません。*27
私たちは自由の話をすると、すぐに「意志の自由」のことを考えてしまいます。そして人間には自由な「意志」があって、その意思に基づいて行動することが自由だと思ってしまうのです。*28
スピノザが言っているのは、確かに私たちはそのような意志を自分たちの中に感じ取るけれども、それは自由ではない、自発的ではないということです。つまり、意思もまた何らかの原因によって決定されている。*29
身体の各部分は意識からの指令を待たずに、各部で自動的に連絡を取り合って複雑な連携をこなしています(これを身体内の協応構造と言います)。*30
また現代の脳神経科学では、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうという意志が意識の中に立ち現れてくることが分かっています。意志はむしろ、運動プログラムが作られたことの結果なのです。*31
スピノザの意志・意識について。私たちの感じる意志通りに動くことが自由なのではない、とスピノザは言う。意志自体も他の原因によって生み出されたものにすぎない。この話は、スピノザが「心身二元論」を否定して「心身平行論」を主張したということにもつながると思った。あと、人がある行為を実行したと意識するより前に、脳から信号が出ているという「ユーザーイリュージョン」のことも思い出した。
また、この後に出てくる依存症や不登校の話も、示唆に富んでいた。意志を起点に自由を考えると、アルコール依存症の患者や、学校行けない児童のやっていることは、彼らの意志が弱いからだという、ある種の自己責任論に陥ってしまう危険性があるというのは、本当にそうだと思う。
- 作者: トールノーレットランダーシュ,Tor Norretranders,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
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(了)
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*12:デイキャッチ 2018年7月26日
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*22:二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」をすきになるのか』イーストプレス、2014年
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