FRYN.

ラジオ、映画、本、音楽、服、食事、外国語学習、など趣味の記録。Twitter : @fryn_you

自分の「心の穴」について考えた

以前、mixi を久しぶりに開いたのをきっかけに、大学時代の自分を振り返る文章を書こうとしたけど、うまくいかなかった。自意識のカタマリみたいだった自分を振り返るはずの文章が、やはり自意識を強く反映してしまって、読み直してしんどかったからだ。結局、その文章はお蔵入りにしてしまったけど、書いているうちに、今まで無意識だったことに気が付いたので、それを書こうと思う。

 

それは、自分の「心の穴」についてだ。心の穴とは、僕も含めて、おそらく相当な数の自意識をこじらせた男女に、甚大な影響を与えたであろう、二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』に出てくるアイデアのことである。

 

 

 自分の心のまんなか、あなた自身の中心に「ぽっかり、穴があいている」のをイメージしてみてください。

 あなたの「生きづらさ」や「さみしさ」、劣等感、不安、嫉妬、憎しみ、罪悪感といった、自分ではコントロールすることができない感情や考えが、その穴から湧いて出てきているのを想像してみてください。

 それが、あなたが埋めようとしている穴です。*1

 

 人は、生まれてから成長するまでの過程で、親から心に穴をあけられる。穴というと、比喩的だけど、癖、みたいなものだ。人間関係や、あらゆる嗜好における、心の癖、それが心の穴。その心の穴は、時として、コンプレックスの根源になっていて、それを埋めるために、人は人を好きになってしまう。しかし、結局他人で、心の穴を埋めることはできないので、恋は破局に終わる。恋を愛に昇華していくには、自分の心の穴と向き合って、「自己受容」する必要がある、というのがこの本の主旨だ。

 

ちなみに、最近読んでいる橋本治恋愛論』にも、これを彷彿とさせる記述がある。

 

・・・実に、他人に好かれたいってことで悩んでるのって、そういう自分が好きになれないからなんだよ。自分が好きになれないから、それを他人に代行させようっていうズルが “恋愛” なんだよ。こんな恋愛、うまく行くわけないのね。

 自分が好きになれない人間ていうのは、その自分を、他人の目から隠すのね。隠して、そしてそれを「見てくれないかなァ」って思うのね。これが “愛されたい” ね。

 でもね、そんなことは無理なんだよ。何故かっていうとね、「愛してほしい」っていうその誘いはね、絶対に「見ないでほしい」を同時にやるからなのね。「見られたい―でも見られたくない」を同時にやるからね。一方で手を引いといて、一方で突っぱねるのね。これをやられたら、絶対に他人は、その人間を愛せないんだよね。

 愛されたいんだったら、自分でその自分を愛さなくちゃいけないんだよ。それをしないでいきなり他人を引っ張り込むから、恋愛っていうのは、永遠に不毛なんだよ。*2

 

恋愛論』については、またどこかで話すとして、多くの人には生育の過程で、心の穴(=心の癖)が形作られていて、それが、嗜好、人間関係、そして恋愛にまで影響を及ぼすということだ。

 

 『どうして~』を読んだとき、自分の心の穴っていったい何だろう、と考えていた。自分は劣等感が強い人間だし、未だに自己受容できているとは言い難いので、自分にも絶対に関わる話だとは思っていたのだけど、この4年間、ずっとそれがわからなかった。でも、例のmixiに端を発した記事を書いていて、わかった気がした。

 

 僕の心の穴は、「誰かを好きになることや、恋愛全般に対する嫌悪感、蔑視感」だと思う。自分の親は教師で、まじめな人だったので、中学から高校の時期(思春期)にかけて、僕に勉強しろと、よく言ってきた。ここまでは、どの親にもある感じだと思う。うちの親が特徴的だったと思うのは、それを良く恋愛やオシャレとセットにして語っていたことだ。たとえば、「見た目ばっかり気にしてちゃらちゃらしてるやつはだめだ」とか、「恋愛にうつつを抜かしているとバカになる」とか、「〇〇高校は男子校から共学になってから偏差値が落ちた」とか、「××高校の女子は化粧ばかりしていてよくない」とか、そういうことだ。

 

 毎日浴びせるようにというわけではないが、折に触れて、そういうことを言われた。そのせいか、自分は服や見た目に興味を持ち始める思春期に、一切そういうことを気にかけなかった。ほかの生徒たちがワックスや腰パンや化粧などで、自己を表現するのに対して、反対に、僕はそれをしないことで、自己を表現しようとした。勉強や部活、ラジオといったサブカルに打ち込むことで、自分のアイデンティティを作り上げていった。

 

 とはいえ、恋愛には興味があったので、津田雅美彼氏彼女の事情』にハマった。『カレカノ』は勉強も部活もできる超優等生が恋愛する話で、(登場人物の見た目以外は)当時の僕にとって、都合のいい物語だったんだと思う。

 

彼氏彼女の事情 1 (花とゆめコミックス)
 

 

・・・で、中学では学年でも上位の成績を収め、部活でも運動部の副部長になり、学級委員長だった僕は、そこそこ、うまくいっていたし、自分のことを受け入れられていた。

 

 しかし、高校受験に失敗したことで、恋愛に背を向けてそれ以外のことに打ち込む自分、という僕の自己像は崩れた。地元の公立進学校を落ちたことは、当時の僕は気づかなかった(というか認めたくなかった)が、やはり相当ショックだったんだろう。

 

 僕は、滑り止めの私立の男子高校に進学した。しかし、この学校は、良く調べもせずに入ったせいで自業自得なんだけど、全く肌に合わなかった。落ち着いた小規模な良い学校だったけど、部活も学校行事もそこそこ、といった感じで、高校生活を満喫したかった(そしてたぶん、彼女が欲しかった)僕には、つまらなかった。しかし、かといって、その学校の中でも部活を強くできるわけでもなく、勉強も一番になれるわけでもない自分に、僕はいら立ちを募らせてた。

 

 ・・・何の話だったか。そう、「恋愛への嫌悪感・蔑視感」という話だった。恋愛をしてるやつはダメだ、という見下し感は、「恋愛はできてないけど学校生活を頑張ってる自分」というアイデンティティがなくなったことで、より複雑になった。「恋愛できていないけど、学校生活も頑張れてなくて、でも恋愛はしたい、ダメな自分」という歪んだ劣等感が形成されたのだ。書いてるだけで、こじれてるなーと思う。もともと、恋愛への嫌悪感も、本当に恋愛に興味がなかったというよりは、自分の見た目や女子とコミュニケーションがうまく取れないことの隠れ蓑だった。そのせいで、自分への肯定感が失われてからは、「見た目も悪く、自信もなくて、コミュ障で、恋愛もできない」という自己嫌悪へと変化した。しかも、当時、自分はTBSラジオの月曜JUNK「伊集院光深夜の馬鹿力」のヘビーリスナーだったので、モテないD.T.の自分というアイデンティティがより一層強まった。

 

D.T.

D.T.

 

 

しかし、伊集院光に罪はない。モテない自分を肯定するためにサブカルに傾倒するなんてありがちすぎる話だし。そういえば、大槻ケンヂグミ・チョコレート・パイン』もこのころ読んだ。

 

グミ・チョコレート・パイン グミ編 (角川文庫)

グミ・チョコレート・パイン グミ編 (角川文庫)

 

 

 こんな感じでうじうじ、燃え残ったゴミみたいな生活を送っていたら、僕は大学受験にも失敗し、一年間、浪人することになった。恋愛もできず、勉強もできないなんて、まさに踏んだり蹴ったりだ。

 

 一年の浪人後、大学に入学したものの、僕は「彼女が欲しい」という気持ちにフタをして、「彼女なんてできない」「だから、むしろいらない」というこじらせた考えのまま、大学生活を過ごした。文系の、女子率が6割を超える学部に所属していたにもかかわらず、全くその利を生かせてなかった。太っていたし(最も太っていたときで102キロあった)見た目に気を使っても無駄、と開き直っていたので、ラグビー部でもないのに、毎日ラガーシャツで学校に通った。大学の授業は前の方の席でまじめに受けていたので、同じ学部の人から「ラガーマン」として有名になっていた(らしい。あとから人にそう聞かされた。)

 

コンプレックスの塊のくせに、見た目なんか気にしない、と開き直っていたころの自分を思い出すから、劇団雌猫『だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』に出てくる、「痩せたくてしかたがない女」の話を読むと泣きそうになる。

 

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査

 

 

彼女たちが身に付けていたもののすべてを、私は今も鮮明に覚えている。私が着られない服。私が「こんなもの私には似合わない」と持てなかったもの。キラキラ、ふわふわ。私はその時初めて、自分が「嫌い」だと思い込んでいたものが、実はそうではなかったかもしれないと気づいた。嫌いだと思い込んで自己防衛していただけだった。*3

 

・・・読んでると涙が出そうになる。この「痩せたくてしかたがない女」には、自分の体験したことのエッセンスが凝縮されている気がしてならない。

 

 話を戻そう。その後、僕は大学で英語を勉強する文化系インカレサークルに入った。他大も含めて女子と交流する機会は多く、女性と全く話せない、ということは無くなったが、やはり恋愛は避けていた。ちなみに、そのサークルでは、英語で社会問題に関して自分の意見を発表する活動もしたんだけど、その題材として自分が選んでいたのが、痴漢、DV、デートDV、などで、今振り返ると、何かテーマが見える。僕は、恋愛や性について語る言葉を持たなかったから、社会問題として(自分から切り離すことで)語ろうとしたんだと思う。恋愛には興味があったけど、コミットできない、怖い、という気持ちでいたと思う。

 

 問題は、恋愛にすごく興味があるのに、恋愛に興味がないようなフリをしているということで、それが今思い出しても、最高に気持ち悪かった。下心って、スマートに出されれば対処できるけど、「あなたには興味ないですけどね~」みたいな言い訳付きで出されたら、相当に困るし、気持ち悪い。僕は、自分の恋愛感情をうまく表現する言葉をもつことを怠ってきた、結果、好きということも言えなくなったし、「好き」ということをうまく相手に表現するのが苦手になった。

 

 大体、モテたいと思った男は(女もそうかもしれないけど)、自分の好意を伝えるために色々な方法を試して、トライ&エラーを繰り返す。その過程で、その技術が洗練されてくるし、何より、相手と自分自身の恋愛感情に、向き合うことが出来るようになっていく(そうじゃない奴もいるが)。結局僕は、大学卒業してから、彼女ができたけど、恋愛を自分のこととして語るのが、未だにどうも苦手だ。親からのメッセージを受け取り、自分自身で作り上げた「心の穴」が、自分の恋愛感情に向き合ったり、それを口に出して語ったりするのを邪魔するから。自分の気持ちを語るのはすごく生々しくて、気持ちが悪い気がして、どうもうまく言葉にできない。ましてや、相手に伝えることもあんまりしたくない。

 

 DVについて調べたとき、男性は感情を言葉にするのが苦手だと、本で読んだ。男性は「男は強くならないといけない」というジェンダー規範を内面化すると、自分の弱い部分を言葉で表現するのが苦手になっていくし、弱みを見せられなくなる。それが、男性がパートナーに暴力をふるって支配することで問題を解決しようとする一因になる。この話を知ったとき、自分はおしゃべりな方だし、つらいってことも言えるし、あまり関係がないかなと思ったけど、とんでもなかった。恋愛っていう、一番根本的なところで、自分は気持ちを表す術を持っていなかったんだ。

 

 感情を表すこととか、感情を受け止めることとか、自分の感情と向き合うことって、本当に大事だと思う。自分の気持ちを「分析」出来たところで、あんまり意味がない。僕だって、ある種の問題として、感情を分析していたけど、それは自分と感情を切り離して、向き合おうとしていなかったからだ。分析も大事だけど、感情をあるがままに、自分の中に湧き出す現象として受け止めないと、あんまり意味がない。ある人のことが好きなんだとしても、そのことに自分が気づけなければ、何も始まらないし、ましてや、その気持ちを相手に伝えることだってできない。

 

今でも、恋愛を自分のこととして語るのも苦手だし、自分の好きだって気持ちを、相手に上手く伝えることもできない。しかしまあ、何とかなると思っている。何より、こんな文章、少し前なら書けなかっただろうし、自分の「心の穴」を受容できるようになってきてると思う。あとは、自分が本当に伝えたい相手が出てくれば、自然と何とかなるんじゃないかあと楽天的に考え(るようにし)ている。

 

願わくば、将来ぼくに子供が出来て、僕の楽しめなかった恋愛を楽しめるようにならんことを。

*1:二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人を好きになるのか」(イーストブックス、2014年)p.54』

*2:橋本治恋愛論』(イーストプレス、2014年)p.171-172

*3:劇団雌猫『だから私はメイクする』(柏書房、2018年)p.114