FRYN.

ラジオ、映画、本、音楽、服、食事、外国語学習、など趣味の記録。Twitter : @fryn_you

2020年のまとめ

去年(2020年)にやったこと、考えたこと、はまったことをまとめました。自分は

ここ2年くらい、三が日にやりたいことを100個書き出したり、達成できるかどうかは別として目標を書いたりしていて、それの総集編みたいなものになると思います。

 

【哲学対話】

相手の話を遮らない、知識でマウントをとらない、自分を卑下しないなどのルールのもとに一つのテーマについて話し合うお遊び。もともとは対面で行われていたようですが、コロナの影響でzoomを活用してオフラインでも行われるようになり、去年から知り合いの誘いで積極的に参加しました。自分が好きな雑談(どうでも良い話)の正体はこれに近かったんだなーと分かった気がしました。お友達もできてハッピー。数は数えていないけど、少なく見積もって20回は参加したと思います。今年も参加しようと思いますが、もっと数を減らして、疑問に思ったことへの勉強や哲学対話を起点としたアウトプットに時間を割こうかと思っています。哲学対話に参加してみて、自分がいろいろ分かってないことが改めてわかったし、もっといろいろ勉強したいと思ったから。それでも、哲学対話界隈の方はよろしくお願いします。

 

 

 

 

【読書会】

新型コロナによって最もダメージを受けた趣味。もともとはオフラインで対面で行われていた読書会がオンラインになりました。哲学対話もオフラインでやっていたし、おなじようなノリで出来るかなあと考えていたけど、何かこれなじゃない感じがして、自分にとって読書会の魅力は対面で行われる何かの中にあったんだなあと逆説的に感じた。オンラインの読書会にも複数回参加して、運営も手伝ったけど、やっぱり自分は対面でやるオフラインの読書会の方がいいなあと思った次第。早くコロナが落ち着いて、元通りに読書会が開けるようになってほしい。

 

【映画】

2020年は前の年よりも映画を観られなかった(特に劇場で)。やっぱり映画は劇場で見ないと集中力が持たないし、劇場で見るってことに喜びを感じるタイプなんだなと気づきました。今年はもっとたくさん映画を観たい。ちなみに去年見た映画で一番印象に残ったのは『ミッドサマー』でした。


『ミッドサマー』本国ティザー予告(日本語字幕付き)|2020年2月公開

 

【筋トレ】

2019年の春から始めて、完全に生活に定着した趣味。ドリアン・イェーツ、フィル・ヒース、ロニー・コールマン、木澤大祐、鈴木雅、横川尚隆、などなどボディビルダーの名前なんて覚えることになるとは思いもしませんでした。今は肩を少し痛めたせいで、ベンチプレスの練習が出来てないけど、早くケガを治して、ビッグ3を伸ばしていきたい。ちなみにYouTubeでよく見るトレーニング系の動画はshofitness、木澤大祐、あたりの動画が多い気がする。マッチョになろう。

 


2019男子日本ボディビル選手権 横川尚隆フリーポーズ【4K】

 

 

【モテ/非モテ

2020年の初めくらいから、このテーマが自分の中で急速に薄らいでいるのを感じる。読書会関係の知り合いに「君が非モテじゃなくなったから」と言われたから、たぶんそうなんだけど、わかるような、わからんような。筋トレなどの趣味や、仕事の面での変化が複合的に影響している印象。これに関しては考えて文章にしたい。二村ヒトシさんの読書会の時に著作を再読して昔と感じ方が変わった話とか書きたい。

 

 

 

 

【ヒップホップ/ラップ】

2019年くらいから急速にラップ/ヒップホップにはまり始めた。考えてみれば、エミネムの"Lose yourself" にはまってCDを買ったこともあったし、ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフルとアフター6ジャンクションをずっと聞いているので、その余地はあったんだけど、今は亡き「フリースタイルダンジョン」が完全に火をつけた感がある。AbemaTVのプレミアム会員になっていたし。今はYouTubeに上がるバトル動画を見たり、バトルから知ったラッパーの楽曲を買ってきいたりしてます。今までは「現場」に行ったことはなかったけど、今年は生で見てみたくなってきた。ミーハーなので、呂布カルマ、RAWAXXXあたりが好き。今年になって聞いた曲だと、舐達麻、Moment Joon が最高でした。

 


舐達麻 / FLOATIN' (Live Version) @新宿BLAZE 2019.12.19

 

【服】

家計簿アプリを見直しても、服に対する出費がドン引きするくらい多くて、去年は本当に服に金を使った。コロナで外に出ないから、出費は減るかと思っていたんだけど、そうはならなかった。ある意味、使った金額だけを見れば、一番はまっている趣味なのかもしれない。comoliとか、Margaret Howell とかが好きで結構買った。考えれみれば、服が好きでもない人からしたら、シャツ一枚に2万も3万もだすのは頭がおかしい。でも、好きだから買ってしまうんだけど。今年は違うことにお金を使うかもしれない。

 

【仕事】

コロナで、てんやわんやだったけど、今までで一番安定して働けている気がするし、充実しているかも。自分の趣味やプライベートで培ったことを仕事にも還元したい。

「初めて後悔を感じた日」 ヘレン・ケラーの自伝からの抜粋訳

Amazon | The Story of My Life (Dover Thrift Editions) | Helen ...

 

今日(厳密に言えば昨日)、「勉強と心と体」についての哲学対話をやったんですけど、そのとき、ヘレン・ケラーの話になったんですよ。あの有名な、サリバン先生が幼いヘレン・ケラーの手を取って水につけて、もう片方の手に "water" と書いたときに、ヘレン・ケラーが文字の意味を学んだという、話です*1

 

そのとき、大学時代に英語スピーチの練習で読んだヘレン・ケラーの文章がなかなかに感動的だったことを思い出したんで、その英文を見つけてきて、英語が読めて、この文章に興味ある人は読んでみてくださいね、と言ったら、参加者の方にFRYNさん訳してくださいよ、そんな感動的な文章なら、と言われたので、訳してみました。個人的にはあまりにも有名な話なのでそんなに需要はないだろうと思ったんですけど、意外と読んでみたいという声があったので、頑張って訳しました。訳すのって、楽しいけど、面倒くさいので(特に解説も答えもないとね)、人のためにやるのはいい勉強になるなあと思いましたね。以下が、拙訳と原文になります。

 

ヘレン・ケラー『私の人生の物語』からの抜粋

 

ある日、新しいお人形で遊んでいると、サリバン先生が大きなぬいぐるみを私の膝の上に置いて、 d-o-ll と指で書き、 その文字がそれぞれの人形を意味していることを思い出させようとしてきた。その日の早くにも、 m-u-g と w-a-t-e-r という文字をめぐって私たちは格闘したばかりだった。サリバン先生はそうすることで、 m-u-g はマグカップ(mug)であり、w-a-t-e-rは水(water)であることを伝えようとしていたのだが、私はその二つを区別できないままだった。憂鬱になった先生は、最も効き目のある、機会があるたびに文字を繰り返し書く課題をしばらく中断していた。私は先生の度重なる試みに耐えられなくなって、新しい人形をつかむと、床の上に投げつけた。壊れた人形の欠片が足元にあるのを感じて、激しく震えた。感情的に爆発してしまい、悲しみも、後悔の気持ちも無かった。今やその人形のことなど、全く好きではなくなった。私の住む暗黒の中には、しっかりした感傷や、愛情は存在しなかった。先生が暖炉の方に人形の欠片をほうきで掃いているのを感じて、いら立ちの原因が取り除かれたことで嬉しくなった。先生は私に帽子をかぶせてくれたので、暖かい日の光の中を散歩するのだとわかった。この考えに、もし言葉なしの感覚を意向と呼べるならば、私は得意になって飛び上がって外に出た。

 

立派な家へと続く道を歩いていると、一面を覆うスイカズラの良い香りがした。誰かが水をポンプから出し始めると、先生は私の手を取って、その注ぎ口の下にかざした。冷たい水が手の上に流れ出るや否や、先生はもう片方の手に、最初はゆっくり、つぎに速く、waterという言葉を指で書いた。私は立ったまま、全神経を先生の手の動きに絶えず集中させていた。突然、忘れられた何かのような、霧のかかった意識、考えが戻ってくる震えを感じた。そして、どちらにしても、言葉の謎がわかった。そのとき、私は w-a-t-e-r が手の上を流れる冷たい何か素晴らしいものだとわかった。その生き生きした言葉によって、魂は目覚め、光と希望と喜びを与えられて、解き放たれたのだ。実際のところ、障害はまだ残っていたけれども、しかし、それはやがて消え去るものだった。

 

井戸小屋を後にして、夢中で探索した。すべてのものに呼び名があり、すべての名前が新しい概念を生み出してくれるのだ。部屋に戻ると、手に触れるありとあらゆるものに命があって、震えているような気がした。というのもそれは、平凡だと思っていたあらゆるものが、全く違って見えるように感じられたからだ。扉を開けて入ると、壊してしまった人形のことを思い出した。探り探り暖炉の方へと近づいていって、人形の破片を拾い上げ、くっつけて直そうとしたが、無駄だった。そのとき、やってしまったことに気がついて、目が涙でいっぱいになった。そしてそのとき初めて、後悔と悲しみを感じたのだった。

 

その日、驚くほど多くの言葉を知った。もうそれら全てが何なのか決して忘れることはなかったし、父も母も妹も先生も、その言葉の中にいて、その言葉が「花を咲かせたアロンの杖のように」私に物事の境目をはっきりさせてくれることも分かったのだった。そのときの私よりも幸せな赤子を見つけるのは、難しかっただろう。多くのことが起きたその日、ベビーベッドに横になり、自分に起きた興奮をもう一度思い出して、生まれて初めて、新しい日が来るのが楽しみだった。

 

Excerpt from The Story of My Life by Hellen Keller ( kindle version ) 282-325

 

One day, at the same time as I was playing with my new doll, Miss Sullivan placed my large rag doll into my lap also, spelled "d-o-l-l" and tried to make me remember the fact that "d-o-l-l" applied to each. Earlier in the day we had had a tussle over the words "m-u-g" and "w-a-t-e-r." Miss Sullivan had tried to affect it upon me that "m-u-g" is mug and that "w-a-t-e-r" is water, however I continued in confounding the two. In melancholy she had dropped the challenge for the time, most effective to renew it at the first opportunity. I became impatient at her repeated tries and, seizing the new doll, I dashed it upon the floor. I changed into keenly thrilled when I felt the fragments of the broken doll at my ft. Neither sorrow nor regret accompanied my passionate outburst. I had now not loved the doll. In the still, dark international in which I lived there was no sturdy sentiment or tenderness. I felt my instructor sweep the fragments to at least one aspect of the fire, and I had a feel of delight that the cause of my soreness become removed. She added me my hat, and I knew I became going out into the warm sunshine. This concept, if a wordless sensation can be called a notion, made me hop and pass with pride.

 

We walked down the course to the nicely-house, attracted by way of the fragrance of the honeysuckle with which it changed into blanketed. Some one become drawing water and my trainer located my hand below the spout. As the cool stream gushed over one hand she spelled into the opposite the word water, first slowly, then hastily. I stood still, my entire attention constant upon the motions of her palms. Suddenly I felt a misty consciousness as of some thing forgotten—a thrill of returning thought; and one way or the other the mystery of language become found out to me. I knew then that "w-a-t-e-r" supposed the first-rate cool some thing that was flowing over my hand. That living phrase awakened my soul, gave it light, wish, pleasure, set it free! There have been barriers nevertheless, it is actual, but barriers that would in time be swept away.

 

I left the well-house keen to research. Everything had a call, and every name gave birth to a new notion. As we returned to the residence every item which I touched seemed to quiver with life. That turned into because I noticed the whole thing with the ordinary, new sight that had come to me. On getting into the door I remembered the doll I had damaged. I felt my way to the fireplace and picked up the pieces. I attempted vainly to put them together. Then my eyes full of tears; for I found out what I had accomplished, and for the primary time I felt repentance and sorrow.

 

I found out a incredible many new phrases that day. I do no longer don't forget what all of them were; but I do understand that mother, father, sister, instructor have been among them—words that were to make the sector blossom for me, "like Aaron's rod, with flowers." It would had been difficult to discover a happier baby than I was as I lay in my crib at the near of that eventful day and lived over the thrill it had introduced me, and for the primary time longed for a new day to come back.

 

以上です。言い訳がましいですけど、急いで訳したこともあって、誤訳も多いと思います。特に、

 

This concept, if a wordless sensation can be called a notion, made me hop and pass with pride.

この考えに、もし言葉なしの感覚を意向と呼べるならば、私は得意になって飛び上がって外に出た。

 

この下線部のあたりの訳出は間違っている可能性大です。すみません。その他にも、ちょくちょく誤訳があると思いますが、親切な方はツイッターなどで教えてくれると助かります。ちなみに、この自伝は邦訳が角川文庫と新潮文庫で出ているので、気になる人は調べてみてください。俺も今日は休みだったので無理でしたが、可能なら図書館で調べてみたいです(しばらくコロナでしまってると思いますけど)。

 

 

奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)

奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 (新潮文庫)

 

 

わたしの生涯 (角川文庫)

わたしの生涯 (角川文庫)

 

 

 

個人的には、この文章、ヘレン・ケラーの感じた言葉の存在を初めて知った喜びみたいなものが真空パックされている気がして、とても好きです。特に、

 

That living phrase awakened my soul, gave it light, wish, pleasure, set it free!

その生き生きした言葉によって、魂は目覚め、光と希望と喜びを与えられて、解き放たれたのだ。

 

この辺りの、英語の畳みかける感じも良いし、言葉が魂を自由にするっていうのもとても好き。 (大学時代、同じサークルのかわいい子がこの文章を笑顔で読んでいたため覚えているという不純な理由があるのは秘密) いずれにしろ英文を訳すのは久しぶりで、大変だけど、やっぱり楽しかったので、またやってみたいなと思います。

*1:哲学対話とは、一つのテーマについて、何人かの人、大体、10人くらいで集まって問を投げかけ合うという活動です。とても面白い

映画『主戦場』

映画『主戦場』を見てきたので、感想をまとめました。

 

 

予告編


映画『主戦場』劇場予告編

 

あらすじ

日系アメリカ人映像作家ミキ・デザキが慰安婦問題をめぐる論争をさまざまな角度から検証、分析したドキュメンタリー。慰安婦問題について、デザキの胸をよぎるさまざまな疑問。慰安婦たちは性奴隷だったのか、本当に強制連行はあったのか、元慰安婦たちの証言はなぜブレるのか、日本政府の謝罪と法的責任とは……。この問題を検証すべく、日本、アメリカ、韓国、肯定派と否定派それぞれの立場で論争の中心にいる人びとに取材を敢行。さらに膨大な量のニュース映像や記事の検証を交え、慰安婦問題を検証していく。*1

 

基本情報

監督

ミキ・デザキ

製作

ミキ・デザキ ハタ・モモコ

脚本

ミキ・デザキ*2

 

普段は交わらない、肯定派と否定派を登場させる

結論から、言うと、圧倒された。センシティブでどう扱っても、各方面から色々言われそうな「慰安婦問題」に真正面から取り組んだことが本当にすごいと思った。パンフレットでも書かれていたけど、この映画の見どころは、慰安婦問題において普通であれば、一堂に会して議論することのない、慰安婦制度はなかった、あるいはあったにせよ、日本政府に責任はないする否定派と、慰安婦制度は存在していたし、そこに日本政府は関与していて責任があるとする肯定派が、まるで議論しているかのような映画の展開だ。

まず、映画は、否定派の人々にインタビューし、意見を聞くところから始まるが、彼らの主張を検証すると、矛盾があったり、事実や言葉の定義を把握していなかったり、あるいは、意図的に史料を歪曲して解釈していることが明らかになっていく。そのうえで、肯定派のインタビューを通じて、慰安婦問題の歴史学における解釈や、国際法における解釈、あるいは、国際的な人権問題における位置づけなどを紹介していく。

 

映像の生々しさ

 しかし、否定派と肯定派の議論を紹介するだけなら、書籍でもできる(実際、この映画を書籍化してくれないかとも思う)。この映画を映画たらしめているのは、やはり、否定派と肯定派の人々がインタビューで語るその生々しい様子を記録したことだと思う。映画監督の森達也さんもパンフレットに書いていることだけど、話し手の表情、口振り、目線、そのすべてが生々しくスクリーンに映し出される。そして、彼らの言葉、その口調を、まるで目の前にいるかのように、聞くことが出来る。詳しいことは言わない。本当に見てほしい。個人的には、否定派の中心にいる、ある人が、自分は慰安婦問題について正しい歴史を伝えている者の一人だと言いながら、人の書いたものは読まないから知らない、と慰安婦問題の著名な学者について語る姿には、もはや笑うしかなかったし、こんな人が日本の政治に影響を与える立場にいるのかと、心底、背筋が凍った。

 

両論併記

 この映画は「主戦場」というタイトルの通り、否定派と肯定派の対戦形式で展開していく。ライターの武田砂鉄さんは、この両論併記の危うさに言及していて、それも一理あるなと思った。『否定と肯定』という、実際にあったホロコースト否定派と肯定派をめぐる裁判を題材にした映画が公開されたとき、そのタイトルが問題になった。この映画の原題は “Denial” 直訳すると「否定」であり、両者を同じレベルのものとして並べていなかったのに、否定と肯定、だと両者が同じ土俵にあって、まだ議論が続いているかのような印象を与えるからだ。それは確かにその通りだと思う。ただ、否定派と肯定派の言葉遣いや、両者の語る様子を対比させるためにも、今の構成で良かったのではないかとも思う。

 

はじめの一歩

 この映画が、慰安婦問題において中立な映画だというつもりはない。そもそも、中立を語ること自体が、否定派にも一定の意義があるという印象を与えてしまいかねない。大胆に言うなら、この映画は否定派の欺瞞を明らかにする映画だし、監督の慰安婦問題に対するスタンスも言うまでもないと思う。そもそも、よく言われることだけど、中立で公平なドキュメンタリー映画なんて存在しない。撮った映像を使うか、使わないか、どの順番で出すかを編集する段階で、作り手の見方が介在することは明らかだから。だから「中立ではない」とか「偏っている」とかいう批判は的外れだと思う。

 この映画を観ていて、心底、慰安婦問題について、そして、日本という国の在り方について、考えなければいけないと思わされた。この映画を観て、慰安婦問題を分かった気になって、自分と意見の異なる人を論破した気になって留飲を下げていていけない。もっと慰安婦問題について知らなければいけないし、日本がこのままでいいのか、本気で考えなればいけないなと思わされた。

 

*1:「映画.com」https://eiga.com/movie/90844/

*2:同上

いいねが100を超えるまで(マッチングアプリ体験 2)

前回は、マッチングアプリで、マッチングするまでに相当削られたっていう話を書いたので、今回は、アプリを再開して、マッチングするために何をしたか、その過程で何を考えたか、を書こうと思う。

 

※ そもそも、「マッチングアプリって何?」って人は、以下のサイトを参考にしてみてください。

 

match-app.jp

 

 

 

マッチングアプリ再開

結局、最初に登録したときは、アプリと関係のないところで彼女が出来て、解約して終わった。もう登録することはない、と思っていたんだけど、そう上手くはいかず、1年経たず、その彼女と別れて、アプリを再開することになった。社会人になって出会いもなく、職場恋愛は避けたかったので、アプリは都合がいいと思った。同時に、合コンにも参加したけど、アプリの方が飲み会一回分の料金でたくさんの人にアプローチできてコスパがいいと思ったので、アプリの方に力点を置いていた(このコスパがいい、というのが後々に疑わしくなってくるんだけど・・・)

 

マッチングするためにやったこと

 しかし、再開するにあたって、前みたいに、いいね送ったけど1件もマッチングしないのは絶対イヤだったので、1~4のような対策を講じた。

 

1.女性がNGとしていることをすべてやめる

 

 まず、ネットを検索して、マッチングアプリの体験ブログや記事などを読んだ。書き手の性別は関係なく読んだけど、女性の記事の方が参考になった。なぜなら、女性が書いた記事には、「こんな男性からいいねがきてげんなりした」とか、「こんな男性のプロフィールが気持ち悪い」とか、「こういうメッセージのやり取りはうざい」とか、「こういう男はヤリモクだから気をつけろ」とか、男性へのダメだしが書かれていたからだ。まずは、その中で、自分に当てはまることを全部やめた。

 

2.写真を改善する

 次に、写真を改善した。多くの人と出会えるマッチングアプリでは、見た目(写真)がすごい重要だ。自分が女性のプロフィールを見てても、ぶっちゃけ、写真で8割スクリーニングしているなと思ったので、ここはとにかく直そうと思った。女性のブログで書かれていたことや、女友達の意見を参考に自分で考えて、次のように改善した。

 

まず、次のNGにあてはまらないようにした。

 

NGとされるもの

①顔が分らない・・・ピンボケ、遠過ぎる、顔写真が載っていない

②逆にアップ過ぎる・・・プロフィールを開いた瞬間にアップの顔が出てくるとキモイ

③体形が分らない・・・体形や服装が分らないと不安

④自分の写真が多すぎる・・・顔写真が多すぎると、ナルシストっぽくてキモイ

 

①~④を避けたうえで、次のような写真を使った。

 

A アップではないが、上半身が映っていて、顔が分る

B 全身が映っている・・・服装がダサくない、体形も普通であることを伝わる

C 友達と映っている・・・飲み会の写真を加工し、社交性があることを伝わる

D 趣味が分る・・スポーツ・旅行など、自分の趣味を伝わる

E 食べ物・・・自分は映ってなくていい。カフェやレストランで食べたおいしい料理。会えば少なくとも、美味しいの食べられそうだと感じる。

F ペット・・・自分は映ってない犬の写真。うちの犬は元モデル犬でかわいかったので。

 

こういう写真をスマホFacebookから探し出して使った。ちなみにA~Cは女性のブログ記事を参考にした。社交性がある人だと安心するとか、趣味が分ると話しやすいとか、書かれていたので、それが伝わる写真を選んだ。D~Fに関しては、女性のプロフィールを見ていて、こういう写真を載せている女性が多かったので、真似した。正直、最初は、なんで見た目に関係ない写真を載せているのか分からなかったけど、多くの女性がやっているってことだし、まあ、やって損はないと思った。その結果、「食の好みが合いそうだと思ったから、いいねました」、とか、「犬の写真がかわいかったから、マッチングしました」とか言ってくれる人が少なくなかったので、やってよかった。

 

 

3.女友達にプロフィールを添削してもらう 

 次に、仲のいい女友達に、プロフィールを見せて添削してもらった。ちなみに、その子自身もアプリで出会った男性と付き合っていて、アプリに関して熟知していたので、これは一番参考になった。しかし、「これはないわ~」とか「マジキモイわ」とか「よくこんな文章書いたね」とか、言われまくったので、かなり恥ずかしく、地獄だったけど、おかげで、プロフィールが大分改善されたと思う。

 

彼女がプロフィール直すときに言っていたことを簡単にまとめると、つまり

 

  • 長くない
  • 職業が分る
  • 趣味が分る
  • 始めた理由が分る
  • 個性はあまり出さない

 

ということになる。プロフィールで自分を詳しく伝えることは出来ないし、相手は忙しいから、簡潔にして、詳しいことは、マッチングした後に、メッセージや直接会って話せばいい。、とにかく、相手が知りたい情報を的確に伝えるのがポイント。

 ちなみに、初回の食事代という項目がある場合、「男が全額出す」が良いということは、僕とその子で見解が一致した。おごる/おごられ問題は色々あるし、気を遣うとか、借りを作りたくないとか、おごられたくない女性もいる。しかし、おごられないことで、足切りされるよりは、おごった方が無難だろう。

 

このように、プロフィールはとにかく、「足切りされない」「減点されない」内容を心がけた。

 

 

4.いいね数を増やす

 

 次に、いいねの数を増やすことにした。マッチングアプリじゃなくても、モテている人は注目されるから、モテやすいし、女性が投稿したブログ記事でも、「いいね数がある程度あった方が安心する」と書いてあったし、自分を振り返っても、いいねをたくさんもらっている女性から、いいねが来たら嬉しいだろうと思ったからだ。 いいねの数を稼ぐために、次のようなことをした

 

① 無料で送れるいいねはすべて使い切る

 「いいね」というのは、基本的に月に30ほど配られて、0になったら、お金で買うものだけど、使っていたアプリでは、一日一回、8人に無料でいいねを送れた。もちろん、アプリ側がランダムに相手を選ぶので、必ず自分の好みの人が出てくるわけではないから、それまでは、1つもいいねを送らない日もあった。しかし、マッチングすれば、自分のいいねが1つ増えるから、たとえ好みじゃなくても、マッチングすればそれだけで、目的は達成される。そこで、毎日8人、相手がどんな人でも、いいねを送ることにした。その結果、少なくない数の人と、マッチングし、いいねの数も増えていった。当然、マッチングした相手と、やりとりしないことも増えた。ここにきて、自分からいいねを送ったのに、メッセージを返さない人が何を考えていたのか、分かった。何人かは恐らく、いいね数を増やすことを目的に、いいねを送っていたんだろう。そう考えると、心苦しかったけど、そういうルールのゲームをしている、少なくとも相手にもいいね数が増えるのだから、悪いことはしていないはず、と思うことにした。

 

②とにかくたくさん足跡をつける

 次に、とにかくできるだけ多くの女性のプロフィールに、「足跡」を残すようにした。足跡とは、自分のプロフィールをどんな人が見たのか分かるシステムのことだ。自分のプロフィールにアクセスするということは、自分に関心があるのかも知れないと判断できるし、そういう人にいいねを送ったほうがマッチングはしやすい場合もある。

しかし、自分の場合、好みかどうかは二の次で、とにかく、多くの人に足跡を残すようにした。そして、特に、いいね数が少ない人(0から9くらいの人)を探して足跡を残した。これは、ある女性のブログに、いいねを稼ぐために、いいね数が少ない冴えない人(もっと露骨な言い方をしていたけど)にできるだけ足跡を残していると書いていたので、それを真似した。

 

 

いいね数100を超える。しかし・・・

1~4のようなことを行った結果、前は1人もマッチングしなかったのに、今回は、いいねの数が100を超えた。

 一定の成果が出たのは嬉しかったけど、またもや、心が削られるような感じがした。プロフィールなどを充実させて、いいねが増えていくのは嬉しかったけど、自分を商品化している感、相変わらず値踏みされている感じ、が嫌だった。

 そして、こちらの方が、もっと嫌だったけど、自分がやられて嫌だったことを、女性に対してしているのがストレスだった。相手を見ずに無料でいいねを送って、マッチングしても好みじゃなければ、やり取りをしないのは、自分もいいねを貰ったのに返信がなくて嫌な気持ちになったことを考えると、胸が痛かったし、いいねをくれそうな人に足跡をつける作業も、「この人のいいね数は一桁だから、いいねくれるかな」とか、「この人は冴えなそうだから、いいねくれるかな」とか、女性を値踏みしている感じがしてすごい嫌だった。自分がやられて、嫌なことを目的達成のためにやるのは、相当、キモイと思った。

 この相手を「人間扱いしていない感」がすごくもやもやした。そりゃ、自分がいいねをたくさんもらって、好みの人とマッチングするためには、必要なことかもしれないけど、なんか嫌だった。

 

「メッセージから会うまで」につづく。

ぼくのマッチングアプリ体験(マッチングまで)

恋バナ収集ユニット「桃山商事」さんが、年末にニコニコ動画で、マッチングアプリをテーマに生放送をしていた。マッチングアプリ経験者の自分としては、待望の放送で、公開放送だったのに飲み会で行けなかったことが、かなり悔やまれた。マッチングアプリ経験者が見たら、共感するところ大なので、ぜひ見てほしい。近日中に、動画が公開されると思う(前半は無料)。

 

桃山商事のチャンネル https://ch.nicovideo.jp/momoyama-shoji

 

マッチングアプリって、人によるけども、結構心を削っていくよなーと思う。桃山商事の生放送でも、たびたび、出てきた話だし、前から考えをまとめておきたいと思っていたので、マッチングアプリについて書きたいと思う。ただ、マッチングアプリ自体や、それを使っている人を批判するつもりはない。たくさんの人に会うには、いい方法だし、アプリで出会った人と結婚した友人もいる。ただ、それは前提としたうえで、自分のアプリ体験をまとめて話したい。

 

その1 マッチングするまでの「つらみ」

 

アプリはマッチングするまでの過程が就活っぽい。映りのいい写真を登録し、年齢、身長、体形、趣味、年収や学歴を記入する、そして、最後に目に留まるような自己PR文 a.k.a. 自己紹介文を考えて、登録する。この辺はエントリーシート(ES)に似ている。

 

情報を登録したら、今度は気になる人を検索して、「いいね」を送る。相手からいいね、が返ってくれば、マッチングが成立して、個人的にやり取りできるようになる(大体、この辺りから、男性は有料)。男性の場合、待っていて沢山の「いいね」が来ることはまずないので、自分から相手を探していいねを送ることになる。女性の場合、自分から送らなくても男性よりは、いいねを集めやすいけど、お眼鏡にかなう人からいいねがくるとは限らない。

 

まず、このマッチングのプロセスがすごい疲れた。

 

自分は断続的に5年くらいアプリをやっていたけど、コツをつかむまで、いいねは一つも来なかったし、マッチングも全くしなかった。俺は、誰からも需要がないのか・・・と思って相当へこんだ。正直、女性は人気会員なら、一日に100近く、いいねをもらうことになるし、一般的な女性会員でも一日に複数のいいねをもらうことも普通だと思うので、いちいち男性を吟味していられないし、そうすると、写真・年収・学歴など、わかりやすい項目で男性をスクリーニングした方が、効率はいい。国公立大学受験のセンター試験や、就活のウェブテストみたいなもんだ。始めた当時、プロフィールも写真も、たいして研究してなかったし、年収1000万円とか、医大・東大卒とか、イケメンとか、わかりやすい「飛び道具」が自分にはなかったので、そりゃ、全くマッチングしなかった。50件くらいいいねして、1件もマッチングしなかったと思う。

 

これがしんどい。年収とか学歴とか身長とか容姿とか、自分をあからさまに値踏みされて、価値をつけられてる感じがして、すごい嫌だった。たまーにマッチングしたとしても、こっちからメッセージを送ったら返ってこなかったり、むこうから、いいね、を送ってきたのに返信がなかったりすることもざらで、それも凹みを助長した。今思えば、複数のいいねを貰う女性にとっては、全部やり取りするのは不可能だし、「自己紹介 → 一通目のメール」の順にスクリーニングするのは「合理的」で悪意もないことは分かるんだけど、当時は、自分を全否定された感じがしてしんどかったのである。しかも、拒否された理由もわからないから、自己否定感は高まる一方であった。

 

桃山商事のワッコさんが語っていた女性側の視点も、新鮮で、女性は女性の地獄があるのだと思った。曰く、すごい変な人(写真から引くくらいのドアップ、プロフィールが自分語り、など)からたくさん「いいね」が来るので、自分はこんな人たちからしか好かれないのか、と思うし、よしんばマッチングしてやりとりできても、やりとりの最中で、相手の男性が無礼だったり、空気よめなかったり、気持ち悪かったりすることも多く、そうすると、自分はこんな変な人と釣り合う存在なんだ、と思ってつらいらしい。男性とは違う辛さだけど、たしかに、それはいやだなあと思う。

 

思うに、この相手や自分の価値が可視化されることの辛さって、エーリッヒ・フロムが『愛するということ』の中で語っていたことに近いと思う

 

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

 

 

いずれにせよ、ふつう、恋心を抱けるような相手は、自分自身と交換可能な範囲の「商品」に限られる。*1

 

このように二人の人間は、自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。*2

 

いまや私たちの性格は、交換と消費に適応している。物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象になっている。*3

 

 

自分を年収や学歴といった、計測可能な「商品」としてパッケージ化して、それを相手に売り込む、いいねをくれた相手が自分と釣り合うかどうかを値踏みする、そんなことをやっている感覚がマッチングアプリにはあった。それが結構、なんだかなあって感じだった。大学のサークルや授業での出会いでは、そんなあからさまに値踏みされることなんてないし、ある程度、値踏みが行われる合コンでも、そんな面と向かって、「あなたの見た目はいやだ」とか、「あなたは低学歴だ」とか、「あなたは低収入だ」とか言われることはなかった。もちろん、マッチングアプリでも、そういわれてるわけではないんだけど、マッチングの段階ではそれくらいしか判断材料がないし、相手から理由を言われるわけじゃないから、学歴か?収入か?低身長か? と考えてしまってドツボにはまる。そんなこと気にしなきゃいいんだけど、自分はアプリを始めたときは彼女もいなかったので、恋愛に関する自己肯定感も低く、かなりドツボにはまって凹んだ。また、人によっては「恋人の身長は170cm以上の人がいい」みたいなコミュニティ(自分の趣味嗜好を伝えたり、自分と同じ趣味嗜好の人を探すために登録するグループ)に入っていることもあって、そういう場合は、ほぼ直接的にフラれた理由を言われた感じになって、余計に凹むこともあると思う。

 

いずれにせよ、普段は見ないで済んでいる、自分の恋愛における市場価値が、図らずも可視化されてしまうところにアプリの辛さがある。また、自分の持っている隠れた価値基準―たとえば、自分は大卒以上じゃないと結婚したくないと思ってるんだなとか、自分はこういう職業の人とは付き合いたくないんだなとか―に直面させられるのも、結構、おもしろいけど、いや~な感じがした。

 

マッチング後の話につづく。

https://fryn.hatenablog.com/entry/2020/01/03/130939

*1:エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊国屋書店、1991年、15.

*2:同上

*3:同上、133

恋をすると気持ち悪くなる人は、どうすればいいのか—橋本治、二村ヒトシ、スピノザ

 恋をすると気持ち悪くなる人、っていうのが一定数いると思う。かく言う自分がそのうちの一人なんだと思うんだけどさ。一体どうすればいいのかって、前から考えていたんだけど、それについてまとめてみました。

 

 恋をするっていうのは、ある人をかっこいい・かわいいと思ってドキドキするとか、優しくされてきゅんとするとか、仕事ができるところを見て憧れるとか、単純にセックスしたいとか、いろいろあると思うんだけど、今回は少し違った恋について考えたい。もちろん、上にあげたような要素がすべてないまぜになっているんだけど。

 

 個人的に、誰かに恋することは、自分の妄想や願望を他人に投影してしまうことだと思う。特にひとめぼれで誰かのことをあっという間に好きになってしまって、いわゆる、恋に落ちてしまうっていうタイプの人にとって、恋はこういうものであるんじゃないか。だって、何も知らない人に対して、ぽ~っとなってしまって、ひどいと、自分の運命の人だと思い込んでしまうって、相当にやばい。笑。そういう場合、たいていは、自分の心の中にある妄想や願望を相手に被せて、相手の中に光を見出してしまっていることが多い。

 

 願望・妄想は、何でもいいんだけど、無意識にその人が変わりたいと思っていることや、劣等感を覚えいていること、不安に感じていること、を変えてくれる、埋めてくれる、消してくれる、っていう望みね。そういう望みを無意識に持っている人にとって、目の前を通りかかった人が、それをかなえてくれそうだと考えてしまうことが恋なんじゃなかろうか。ちなみに、これには元ネタがあって、一つは二村ヒトシの「心の穴」ですね。

 

 自分の心のまんなか、あなた自身の中心に「ぽっかり、穴があいている」のをイメージしてみてください。

 あなたの「生きづらさ」や「さみしさ」、劣等感、不安、嫉妬、憎しみ、罪悪感といった、自分ではコントロールすることができない感情や考えが、その穴から湧いて出てきているのを想像してみてください。

 

 それがあなたの埋めようとしている穴です。

 

「恋人ができれば、この『さみしさ』から解放されるんじゃないか」

「誰かが愛してくれれば、コンプレックスを意識しないですむのに」

「あの人と結ばれれば、私は『なりたい自分』になれるかも」

 

心のどこかでそう思いながら恋をしているとしたら、あなたは自分心の穴を忘れたくて、恋の相手の存在を穴の中に詰め込もうとしているのです。*1

 

 この本を読んだのはだいぶ前なんだけど、今読んでも、ここの記述は光っているなあと思う。すごくハッとさせられるし、心の柔らかい部分に触れてくる。ちなみに、手元にあるこの本には「」の部分に線が引いてあって、「男にもありそう」と書いてある。お前のことだからー、って昔の自分に言ってやりたいですね。

 

 ちなみに、この感覚を全く分からないという人も一定数いて、友達にもそういう人がいる。女友達の一人が、あまりにも俺がこの本の話をするものだから、買ってみて読んだんだけど、少しもピンとこなかったらしい。その子には買う前に、きっとあなたは全く共感できないと思うよ、と言っていたんだけど、案の定、そうだったわけだ。そういう人は、この本が言うところの「自己受容」が出来ているというか、自分の劣等感をあるがままに受けいれて白旗上げちゃってるというか、悩んでも仕方がない、みたいに思っている節がある。もちろん、そういう人にも劣等感はあるんだけど、必要以上に振り回されないというか、最終的に自分を受け入れていて、自分が気持ち悪いっていう不安感や、このままじゃだめだみたいな罪悪感が薄い。すごくいいなーと思う。憧れる。

 

もう一つの元ネタは、橋本治恋愛論』。恋愛論にもこんな記述が出てくる。

 

恋に落ちたら、その瞬間、その人間の周りは暗黒に包まれる—御当人達は光の中にいるもんだからそんなこと気がつきゃしないけども、それは、分かる人間には分かる。「あ、そうなの。あなたがこことは別の世界の人間と、そんなにも激しい恋に落ちなければいけない理由っていうのが、私のいるこの世界にあるっていう訳?」っていう、そういう感情が、自分の親しい人間に恋に落ちられてしまった人間の "怒り" に近いような感情の正体なのね。*2

 

恋愛とは光である、という話の元ネタ。自分と自分を含めた周囲が闇であるからこそ、光に見える人のことが好きになってしまうという。米津玄師の「Lemon」にも、「今でもあなたは私の光」って歌詞が出てくるけど、この歌詞を聞いたときは、おっ、って思った。

 


米津玄師 MV「Lemon」

 

それ以外に、こんな記述も。

 

 実に、他人に好かれたいってことで悩んでるのって、そういう自分が好きになれないからなんだよ。こんな恋愛、うまく行く訳ないのね。

 自分が好きになれない人間ていうのは、その自分を、他人の目から隠すのね。隠して、そしてそれを「見てくれないかなァ」って思うのね。これが "愛されたい" ね。

 でもね、そんなこと、無理なんだよ。何故かっていうとね、「愛してほしい」っていうその誘いはね、絶対に「見ないでほしい」を同時にやるからね。一方で手を引いといて、一方で突っぱねるのね。これやられたら、絶対に他人は、その人間を愛せないんだよね。

 愛されたいんだったら、自分でその自分を愛さなくちゃいけないんだよ、それをしないでいきなり他人を引っ張り込むから、恋愛っていうのは、永遠に不毛なんだよ。*3

 

 先にあげた、二村ヒトシさんは本の元ネタとして、『恋愛論』を挙げているんだけど、ここの記述なんて、まさに『なぜ愛』のアーキタイプ(原型)だなあと強く思う。自分を受容できていなくてしんどいから、他人に受容してもらおうとする。でも一方で、自分自身が嫌いだから、その嫌いな自分を相手に見せることが出来ない。よしんば、相手が自分を受け入れてくれたとしても、嫌いな自分を、受容した相手のことも嫌になってくる・・・みたいな。橋本治が言おうとしている、愛してほしいと見ないでほしいを同時にやるっていうのは、たぶん、そういうことだ。

 

 恋愛をすると気持ち悪くなる人っていうのは、この辺に原因があるんじゃないかと思う。誰かのことをいいなあ、と思っても、自分に不安があるから、相手に嫌われてないか、自意識過剰になって独り相撲をしてしまう。SNSのメッセージを必要以上に推敲したり、送るタイミングを過剰に気にしたり、頼まれてもいないことまで先回りしてやっちゃったり、その結果、相手から引かれて、さらに落ち込んだり・・・。気遣いは大事で必要だし、気が利くっていうのは美徳だけど、それが過剰になると、相手には重いし、こっちがやっていてしんどいことは、やっぱりやらない方がいい。

 

 実際、上に書いたようなことは、別にみんな多かれ少なかれ経験していることだし、自意識過剰にならない人なんていない。それでも、やっぱり、毎回、毎回、自意識過剰になって、しんどくなって、相手との関係がうまくいかないのも、考えものだ。たしかに、人間に相性ってものがあるし、合わない人も当然いるだろうけど、かといって、いつも同じような失敗をしているとしたら、何かそこには原因があると思う。

 

 これは完全に、個人的な見解なんだけど、気持悪くなる理由の一つは、「相手へのうしろめたさ」じゃないだろうか。相手に負担をかけている、迷惑をかけている、不快な思いをさせてるんじゃないか、そういう相手への「うしろめたさ」が、人をどんどん自意識過剰にさせ、気持ばかり先回りして動く、重くて気持ちの悪い状態にしてしまう。「うしろめたい」でも「嫌われたくない」、この二つが同時にあるから、思考は回るけど、全く動けない、空回り状態になってしまう。

 

 なんで、大きな迷惑をかけたわけでもないのに、後ろめたいんだろうか。たぶん、根底にあるのは、自分みたいな人間が好きになってしまったことが、相手にとって申し訳なく、後ろめたい、ということだろう。もはやここまで行くと、後ろめたさというよりも、罪悪感と言い換えた方がよさそうですらある。ここまで来て、読んでいる人は気づくと思うんだけど、これって、結局、さっき話した橋本治の「自分が愛せない」問題へと帰結していく。やっぱり、根底には自分自身(大げさに言えば自分という存在)を受け入れられない問題があるということか。

 

 ちなみに、ここまで深刻じゃないにしても、自分のことは嫌いじゃないけど、相手に拒絶されるのが怖くて、単純に自分を開示できないというタイプもあると思う。こういう人の場合は、自己受容が出来ていないというよりかは、自分を見せるのが恥ずかしい、拒絶されると傷つくからいやだ、というタイプ。前にあげた方ほどではないにしても、やっぱり、自意識過剰になるから、はたから見てると気持ち悪くなる。

 

 ここまで書いておいてなんだけど、じゃあどうすればいいのか、っていうのは、申し訳ないけど、皆目見当がつかない。そもそも、根本的には自己受容できればいいと思うんだけど、この問題はデカすぎるし、個人によって状況も違うから、どうやったらいいのか分からない。ただ、一つ思うのは、自分を許してやることじゃないかと思う。「自分はだめだ」っていう劣等感は人それぞれ少なからず持ってるものだし、それ自体は悪いことではない。問題なのは、劣等感を抱えている自分が嫌いになったり、劣等感を覚えたときに必要以上に自己嫌悪してしまうことだ。

 

 いい加減、もう自分を許してやりたい。そりゃ、今の自分は、理想の自分とはかけ離れた存在なのかもしれないけど、そんなに際限なく、追及する必要もない。そして、自分が許せないというのは、自分に自信がないわりに、自分への要求・期待が大きすぎる証拠でもある。だって、自分に期待していなければ、出来ない自分に落ち込むことはない。いい加減、ダメさも含めた等身大の自分を見つめた方がいいし、かなわない理想を握りしめて意固地になるのもやめてあげたい。*4

 

 とはいえ、自分を許せ、受け入れろなんて言っても難しいですよね。そこで考え方のヒントになると思うのが、哲学者スピノザだ。「100 de 名著」でも話題になった『エチカ』の中で、スピノザはこんなことを言っている。

 

人間は自分たちを自由であると思うがゆえに、ほかの事物に対してもよりも相互に対してより大きな愛あるいは憎しみを抱き合う。*5

 

スピノザによれば、人間は自分の自由意思に基づいて行動していると考えているが、それは幻想で、人間は自分の行動を意識してはいるけど、その行動の原因を知っているわけではない。すべての人間は自由意思に基づいて行動しているわけではなく、脳内の記憶や感情、連想など様々な要素が絡み合って行動している。それなのに、自分も、相手も、自由意思で行動しているものだと思うから許せない、受け入れられない。

 

 また、人には「感情の模倣」という性質があり、人が自分と同じ自由意思で動く存在だと考えるから、その人の感情や欲望をあたかも自分のものだと考えてしまいがちである*6 。これって、SNSのことを考えるとよくわかる。Twitterで流れてきた自分の考えに似たツイートに簡単に共鳴してしまったり、FBやInstagramで流れてきた他人の欲望に感化されて、自分も欲しくなったり、持っている人をねたんでしまったり、持っていない自分に落ち込んでしまったり。そりゃ、自己受容なんてできるわけない。

 

 そこで、スピノザの提案は、自分の感情をある種の自然現象として理解するということだ*7。自分の内部に、劣等感やうしろめたさが浮かんできたとき、こんなこと考えてる自分はだめだ、と思う必要はない。だって、それは自分の自由意思ではなく、ある種の自然現象のように、いろいろな身体の状態によって作り出されたものなのだから・・・なんていう風に理解してみる。こんな風に考えても、いやな気持は無くならないかもしれないけど、少なくとも、その感情に振り回されることはなくなる*8

 

 好きな人を前に緊張しちゃったり、後ろめたくなったり、劣等感を抱いたり、自意識過剰になっている時は、そんな自分を自然現象として見つめてみる。また、自分はこうなっているなあ、と考えてみることなら、出来ると思う。そして、出来れば自分がどういうときに、どんな気持ちになるのか、どんな人にどんな感情を刺激されるのかを知っておくことが出来れば、もっと良いと思う。そうなれば、一定の刺激に、常に一定の反応をしてしてしまう「自動機械」になるのを避けられるはず*9

 

 そして、そもそも論として、自分の劣等感や後ろめたさを刺激されるような人とは、恋愛しなくてもいいんじゃないか、という考えもある。自分の妄想や願望を刺激され、そこに投影してしまうような人は、すごく魅力的だし、一緒にいればドキドキするから、この人と付き合いたい、って思うのも分かるんだけど、その人と付き合っても、そもそも、あなたは幸せなんですかねえ、って話だ。

 

 しかしまあ、ドキドキするような人と付き合いたくなる気持ちはわかるし、そうじゃない人と付き合えるかっていえば、まあ難しいよなあとも思うんだけど。何の魅力も感じない人と、「妥協」して、とりあえず付き合うっていうのも、高慢だし、不誠実だ。そもそも、付き合えるのかどうかすらもわからない。ただしかし、毎回毎回、同じようなタイプと付き合って、破局して、恋愛で痛い目見る人は、そもそも、その人と付き合って幸せなのかどうか、は考えてみてもいいかもしれない(難しいのはわかるけどね・・・)。

 

大分長くなったけど、一部の人が恋をすると気持ち悪くなる理由、気持悪くならないようにするには、どうすればいいのか、まとめてみました。最後はスピノザまで引っ張ってくることになりましたが。何かの役に立てば幸いです~。

 

(了)

 

スピノザについてはこちら

 『エチカ』は本当難しかったです。読書会じゃなければ、読み終われなかったと思う。

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

 

 

エチカ―倫理学 (下) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (下) (岩波文庫)

 

 

哲学者・國分功一郎による『エチカ』の解説書。この解説書だけでも、読む価値あり。

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)
 

 

 今回引用した解説書。100 de 名著の方とは、また違った点に着目していて面白い。

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

 

 

*1:二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(イースト・プレス、2014年)54-55。

*2:橋本治恋愛論(完全版)』(イースト・プレス、2014年)119。

*3:同書、171-172。

*4:しかし、親や周囲の期待に応えられなくて、自己評価が低い場合もあって、こっちの方はもっと複雑だと思う。ただ、期待に応えられなくて周囲が自分を責めるのかもしれないが、最終的に、自分も自分を責めているので、少なくとも自分だけでも、自分を許してやりたい

*5:スピノザ『エチカ』第3部定理49の備考

*6:同上

*7:『エチカ』第5部定理3、4およびその参考、上野修スピノザの世界—神あるいは自然』(講談社現代新書、2005年)146-48

*8:ちなみにこれって、ものすごい理屈っぽい考え方で、橋本治恋愛論』で書かれていたことと、矛盾するようにも思えるけど、そうではなく、陶酔状態と理屈の間を行ったり来たりできることが大切なんだと思う。

*9:社会学者の宮台真司がいう「言葉の自動機械」っていうのはこういうことか。

橋本治『恋愛論(完全版)』読書会感想② 陶酔能力編

2019年4月28日(日)猫町倶楽部読書会 橋本治恋愛論』に参加してきたので、その感想を書きたいと思います。

 

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂)

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂)

 

 

 

その①はこちら。

fryn.hatenablog.com

 

猫町倶楽部についてはこちら。

www.nekomachi-club.com

 

 その①の感想でも書いたと思うけど、橋本治恋愛論(完全版)』を読んで集まるとなれば、きっと自分みたいに自意識拗らせて恋愛について考えすぎた人が、「わかるわかる」の大合唱かなあ、いやだなあ(笑)、と思っていたらそうじゃなかった。

 

 大まかに分けて、文体と書き方のせいで読みにくい、女性蔑視を感じていやだ、という主に二つの反対意見があって、それについては前回書いたので、今回は、自分のグループで出た話や、個人的に『恋愛論』が自分に刺さったところを紹介していきたいと思う。ただ、自分がいいなあと思ったところすべて取り上げていくと、まったくもってきりがないんで、いくつか絞って紹介しようと思います。今回は「陶酔能力」について。

 

 橋本治は恋愛に必要なのは「陶酔能力」だという。

 

恋愛に必要なものっていうのは、実は "陶酔能力" なんですね。*1

 

話は前に戻りますけど、恋愛に必要なのは陶酔能力だっていう話ね。人間ていうのは普段社会生活っていうのを営んでてて、それが為にガードっていうものは必要なもんなんだけど、陶酔能力っていうのは、それとは真っ向から対立して、相容れないもんだからね。普通の生活の中で人間が突然ドロドロに溶けちゃったら困ったことになるけど、陶酔能力っていうものはそういうもんだもんね。*2

 

  陶酔能力とは何か。引用した橋本治の記述だけを読むと、何かやばいものみたいな感じがするけど、要するに、自分と相手との関係に感情的に没入できるかっていうことだと思う。たとえば、好きな人と二人で一緒にいるとき、好きっていう気持ちにブレーキをかけるような、もう一人の自分が、頭の上の方から見てる、みたいなことありませんかね。自分の好きな人が、自分に好意を見せてくれた(ように見える)時、いや待て落ち着け、これは別に自分だけにやってるわけじゃないんだ、落ち着け、ってツッコミをいれちゃったり。セックスしてるとき、恥ずかしいって気持ちから、冷静に今の状況を見てしまって声を出さなかったり相手の目をみなかったり。そういう、冷静で理性的な意識をシャットダウンして、今目の前にいる人との関係に没入できる力を、陶酔能力って言っているんだと思う。

 

 自分がどうかっていえば、恋愛が本当に苦手なんだけど、まあ、陶酔能力ないなあと思う。前に記事にも書いたけど、そもそも人を好きになるってことにブレーキをかけていたし、人のことを好きになると、なんで自分はこの人のことが好きなのか、って頭で考え出して、好きって気持ちが走り出さないように抑えるのに必死だったのをよく覚えている。しかも、そのときの自分は、理性的な俺かっこいい、くらいに思って自分をだましてたので、それはまあ恋愛できませんよねっていう。橋本治に言わせれば、そういう理屈っぽいだけの人は陶酔能力がないんだろう。

 

ちなみに「前の記事」はこちら

fryn.hatenablog.com

 

 実際、橋本治はこんなことを書いている。

 

不思議なんだけど、世の中には、論理とか理屈っていうものに感動して、ドラマには全然反応できない人っていうのがいるのね。俺なんか、感動するということはそこにドラマを発見することなんだと思ってるからサ、こういう人に会うと困っちゃう。全部理詰めで説明しなくちゃいけないから疲れちゃうんだよね。*3

 

 ここで出てくるドラマとは、月9のテレビドラマのことじゃなくて、物語くらいのことだろう。実は、橋本治もこの本の中でドラマが何か、明確に定義しているわけではないんだけど、橋本治がいうドラマを発見するっていうのは、おそらく、身の回りの出来事、特にここにおいて恋愛に関して、自分の心が動くような感動的な物語をそこに見いだせるかどうか、ということだと思う。

 

 橋本治は、感動について、理屈っぽい人・ドラマが苦手な人というのがいて、そういう人はそもそも、感動することが苦手なのだという。感動することは、得体のしれない感情に任せて、自分自身を無防備にさらけ出してしまうことだから。そしてさらに、感動が苦手な人は、それを一人で持ちこたえられないから、やたらと人とそれを共有しようとする、という。*4

 

感動したら、必ずそれを文章に綴ってみないと気がおさまらない人とかね。感動した自分の気持ちを素直に文章に綴れないでいるそのことをさして「ああ、自分はダメな人間だ・・・・・・」って思ったりサ、それを克服する為にカルチャー教室に通ったりとかサ、ホントに学校教育の鑑みたいな人っているんだよね。

 

"感動を文章に書き記しておきたい!" も "恋多き女" も、実は同じもんなのね。どっちも自分一人で感動を持ちこたえられてらんないていう点でおんなじね

 

もうお分かりかもしれませんが、実はこういう人達のことを、私なんかは「陶酔能力がない」っていうんですね。*5

 

 全く、自分に当てはまりすぎて耳が痛い。もちろん、文章を書く人全員にこれが当てはまるわけじゃないし、理屈っぽい人でも、陶酔能力があって恋愛が得意な人もいる。しかし、自分に関して言えば、完全に「感動を文章に書き記しておきたい」タイプの人間だと思う。このブログもそうだし。

 

 より大胆に、話を発展させて考えると、感動を文章に書き記しておきたい人、っていうのには、今を生きているほとんどの人に当てはまることなんじゃないかとすら思う。というのも、今の時代、TwitterとかFacebookとかで自分の読んだ本や見た映画の感想を投稿したり、自分の恋愛の悩みをつぶやいたりして、人と自分の感情や考えを共有しようとするじゃないですか。あれって、橋本治に言わせると、自分一人で感動を持ちこたえられない人ってことになんじゃないかと、そう思う。

 

 まず、感動を文字に起こすことって別に悪いことじゃないと思うんだけど、文字に起こすことで、自分を客観的に見ることになると思う。別に、SNSに投稿しなかったとしても、自分で自分の感情や考えを書き起こすことってあるじゃないですか。自分の中にあるもやもやした感情、それを文字に起こして目に見える形にすることで、もともとあった感情とは別のものになる感じはすると思う。

 

 つぎに、たぶん、こっちの方が重要だと思うんだけど、自分の感情を共有して、共感をしてもらうことに、今のSNSを使っている人は(すくなくとも自分は)慣れすぎてしまっていると思う。何か楽しいこと、嬉しいこと、怒ったこと、悲しいこと、辛かったことをSNSに投稿して、人から反応をもらうことを日常的にやってしまっている。それはまあ、確かに楽しいし、周りから承認されている気がするし、気が楽なんだけど、自分一人で感情を感じ切って、向き合うことが苦手になっている。

 

 そうなると、どうなるかっていうと、結局、他人に依存してしまうことになる。橋本治的に言えば、感動を持ちこたえる力がないから、自分の感動をすぐ人に手渡してしまうし、永遠に他人への依頼心から手を切ることが出来ない*6宮台真司もそういえば言っていたけど、性や恋愛はもともと、法の外にあるもので、反社会的なものだ*7 そういうものを持ちこたえる応える力がないと、恋愛には向いていないのかもしれない。

 

陶酔能力っていうのはやっぱり、それを一人で持ちこたえられるかどうかっていうところがすごく大きいと思うね。前に「恋愛するっていうことは、実は感性的な成熟ってものが必要なんだ」ってことは言ったけど、感性が成熟したればこそ、感動とか陶酔とかっていう、言ってみれば社会的には自分をあやうくしちゃうものを自分の内部で持ちこたえることが出来るんだよね。そういうことが分かんない人間は恋愛なんてものをしない方がいいし、破局の数だけをコレクションしてればいいんだと思うの。*8

 

・・・本当に耳が痛い。まとめると、まず、自分の中にある相手を「好き」っていう感情に没入して向き合える力、これが陶酔能力。理屈っぽい人は陶酔能力がなく、恋愛に向いていない。さらに、その感情を一人で持ちこたえられるかどうかが重要で、やたらめったら人とそれを共有しようとする人も、他人に依存してしまうタイプで、恋愛に向いていない、ということになるだろうか。これだと、最近の人のほとんどは恋愛に向いてないってことになるような気がする・・・。

 

 長くなってきたんで、そろそろ、終わりにするけど、恋愛に関して感情に向き合わないことを推奨するグループもいて、個人的に少し前に話題になった「恋愛工学」のグループはそこに当てはまると思う。恋愛工学に関しては、ここでは書ききれないけど、簡単に言うと、美女とセックスするための技術、みたいなもん。・・・で、その中にとにかく、断られたことを気にせずに女性に声をかけまくれとか、あえて女性をディスることで感情を揺さぶれ、みたいな話が出てくるんだけど、要するにそれって、自分の中にある「好き」とか「恥ずかしい」とか「傷ついた」とか、そういう感情と向き合わずに、相手をいかに感情的に操作するかっていうテクニックで、橋本治的な恋愛観とは全く逆だなあと思う。

 

※恋愛工学について以下の記事がおもしろいです

mess-y.com

 

 僕個人はどっち派なのかというと、断然、橋本治派です。というのも、感情と向き合わない恋愛って、つまんないなあと思う訳です。「あーこの人好きだなあ」って自分の感情が揺さぶられるような人と恋愛したり、セックスしたりするから楽しいんであって、自分の感情押し殺して、相手のことも考えずに物みたいに扱って、「恋愛工学」という手段がうまくいったという確認作業として、付き合ったりセックスしたりしてもつまんないよなあと思うので。感情を押し殺してセックスできるようになれって、換言すれば、サイコパスのススメ、以外の何物でもないと思う。

 

 すごく大胆に、感情を排して、自分の利益のみを合理的に追求できること、をサイコパスだとすると、恋愛ってその対極にあると思う。そもそも、恋愛ってコスパが悪いじゃないですか。読書会でも出てきたけど、恋愛ってそもそも必要ですか、コスパ悪くないですか、みたいな話が良くある。まあ、そりゃそうだよね、と思うし、橋本治自身も、そういう人には恋愛は必要ない、というだろう。恋愛は合理性とか効率性とか、そういう社会の外側にあるものだから、恋愛なわけで、恋愛に関してコスパなんていうこと自体がそもそもナンセンスなんだと思う。同じような理由で、実は「マッチングアプリ」も恋愛と相性悪いと思うんだけど、それはまた今度書こうと思います。

 

あと2回くらいで、恋愛論についてまとめられたらいいな・・・。

 

(了)

*1:橋本治恋愛論(完全版)』(イーストプレス、2014年)、25

*2:同書、29

*3:同書、31 

*4:同書、32

*5:同書、32-33

*6:同書、33。

*7:宮台真司二村ヒトシ『どうすれば愛し合えるの』(KKベストセラーズ、2017年)。

*8:橋本『恋愛論』、33