千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里『欲望会議―「超」ポリコレ宣言』
千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里『欲望会議「超」ポリコレ宣言』角川書店、2018年。
2019年1月1日(火)読了。哲学者の千葉さん、AV監督・文筆家の二村さん、彫刻家・文筆家の柴田さん、による対談本。対談本なので、一つの一貫した主張があるタイプの本ではなく、三人がそれぞれの気になっていることを話すことで、それぞれの章ごとにゆるやかにテーマが立ち上がるタイプの本。目次はこんな感じ。
第1章 傷つきという快楽
第2章 あらゆる人間は変態である
第3章 普通のセックスって何ですか?
第4章 失われた身体を求めて
第5章 魂の強さということ
的外れかもしれないけど、この本のライトモチーフは、人が複雑さに耐えられなくなっていることかな、と思った。どんどん社会が複雑になっていく中で、人はどんどん、その複雑さに耐えられなくなっている。
どうすれば、政治的に正しいのか?どうすればマイノリティを傷つけないのか?あるいは、マイノリティを傷つけてるのはだれなのか?僕たちは正しい答えが知りたくて仕方ない。答えなんて無いかもしれないし、あるいは答えはこれから変わるかもしれないけど、そこに耐えることもできない。
あるいは、差別されたマイノリティを見たとき、そこに自分の傷を投影して、マイノリティに安易に共感してしまう。そして、そのマイノリティの敵を、自分の敵として糾弾してしまう。本当は自分の置かれた状況とマイノリティの置かれた状況は違うかもしれないのに、その違いを捨象して自分と同じだと思ってしまう。
複雑さに耐えろと、この本は言っている気がする。自分の中に湧き上がる未知の感情を安易に喜怒哀楽に分類したり、他者に投影したりせずに、まずは自分で1人で受け入れろと。一見矛盾するようなことを内包する事態を単純化するのではなく、それ自体として見つめて考えてみろと、言っている気がした。
以下、おもしろかった所の引用とメモ
柴田 でも、実際にはマックスのような男なんていなくて、下心がある男の方が女に優しいということをそういうフェミニストは見えてないんじゃないですかね。三次元の女に無関心な男性オタクやゲイの、とりたてて女にやさしくないマイナス方面での男女平等な態度がミソジニーとして批判されるたびにそう思います。(p.66)
男の女性へのやさしさは下心(付き合いたい、セックスしたい)を基づいていることが多い。だから、不器用で女性をエスコートできない男性よりも、女性の扱いが上手いチャラいヤリチンの方がモテることが多い。でも、それはヤリチンを批判したい側は、受け入れたくない。なぜなら、往々にして、ヤリチンは女性をモノとして見下しているから。そういうヤリチンの正しくない優しさが女性に受け入れられるとは思いたくない。
二村 敵を発見してキーってなる、怒りにとらわれることはオーガズムですから。それは女性だけじゃなく、そういうことをやっている男性もいますよね。古い傷の上に新しい傷を刻むような、めちゃめちゃ苦しい、苦しいからこそ麻薬的なオーガズムだと思いますよ。*1
SNS上で敵を見つけて炎上している人は発情している、という柴田さんの話の流れから出てきた話。小さいレベルで言えば、自分の劣等感をあおるような、SNS上のマウンティングから目を背けられない人、もっと深刻なことなら、DV加害者とばかり付き合ってしまう人、この人たちはみんなある種のオーガズムを得ているということか。そういえば自分も、強烈に自分の劣等感を煽ってくる、鈴木涼美の本をつい買って読んでしまうし、読んでるときも、一体この感覚は何だろうと考えていたけど、オーガズムだったのか?
とにかく映画として面白いんです。いや、本当に、自分の立場に固執した論争をする前に、右も左も男も女もまずこの映画を観たらいい。それから改めて議論を始めれば、みんなもうちょっと建設的になるんじゃないか*2
映画『スリービルボード』に対する二村さんのコメント。この前で、白人男性警官を加害者、黒人を被害者として描く、映画『デトロイト』と『スリービルボード』を比較して、スリービルボードを複雑性を持った映画だと絶賛している。個人的にも『スリービルボード』は大好きだし、優れていると思うけど、単純さを求める人がこの映画を観て、果たして、この映画の複雑さを自分のものとして受け入れられるかは、疑問。自分の都合のいいところだけ、切り取って解釈してみてしまうような気がする。いや、そもそも、そういう人はこの映画は見ないか?だからこそ、みたらどうなるか気になるとも思う。
柴田 本当にマイノリティを支援するとなったときに、一番やっちゃいけないのは、マイノリティに憑依してしまうことです。たとえば、「黒人かわいそう」でも、本当の黒人の辛さが理解できるわけがないんですよ*3
映画監督の森達也が言っていたことを思い出した。死刑反対を唱えたときに、「殺人事件の遺族の気持ちがわからないのか」という賛成派はまさに、遺族に憑依している。その人が遺族当事者なら話は別だが、そもそも、殺人を受けた遺族の辛さは経験した人以外には理解できない。理解できないのに、理解できたかのように憑依して、炎上してしまうのは危うい。
千葉 いろいろな見方を言ったら確実なことが言えなくなるだろうという批判もわかるけれど、いまは逆に、物事にはいろいろな見方があるだろうという、すごく当たり前な相対主義を言わなきゃいけないんじゃないかという気がする。
複雑さを受け入れる強さを持て、という話。
だから時代全体が、身体を喪失しているんですよ。その中で身体を失ってしまった人間が右往左往している。セックスの喪失というのも、それぐらいマクロな視点で考える必要があるんじゃないかな。*5
『攻殻機動隊』を思い出した。あの話では、人間が電脳を通じて、意識が直接ネットに接続していて、LINEのメッセージや通話のようなことを、スマホを取り出さなくてもすることができる。中には、身体を捨てて、意識だけをネットに移行する者も出てくる。ある種、SNSを通じて自分の意識をネットに放り出している自分も、攻殻機動隊の世界と大した差はないかもしれない。
柴田 SNS的な共感のつながりって、もう自他の認知がグチャグチャで、「私は子供のときにレイプされました」という人がいただけで、それを聞いた人は子供のときにレイプされていないにもかかわらず、「この傷は私のものである」となってしまう。自他の境界がなくて、もうスライムみたいに溶け出している。私は「もうちょっと自分に引きこもれよ」と思います。*6
液化する自我。劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』を思い出した。みんながみんな、オレンジ色の液体になってしまう。引き込もる、という表現が印象的。面白いのは、家に引きこもって、SNSばかりやっている人がいるとしたら、その人はSNSを通じてだれかと一体化しているわけで、引きこもっていない、ということになる。
千葉 エンターテインメントは、単純に泣ければいい、驚ければいいというようなアトラクション的なものになっていく。「こういうことを言われたから傷ついた」というのは、今日では、無意識を受け止めて解釈するという過程をスルーして、たんに「こういうアトラクションは乗りたくない」ということになっているように思います。*7
人はすべてを快/不快の単純な刺激でとらえる動物になっていきつつあるのかもしれない。『スリービルボード』のような映画は、よくわかんないもの、として、一部のファン以外からは見られなくなっていくのかも。だから、愉快なエンターテイメントなのに、同時に、すごい複雑な感情を想起して観客に直面させるような映画はすごいと思う。韓国映画は『お嬢さん』が大ヒットしたけど、そういう部分があるんだと思う。羨ましい。日本だったら、是枝監督の『万引き家族』もそれに近いか。映画賞がある意味って、『万引き家族』がシネコンで上映されて、映画ファンでもない人が見に行くような機会がうまれることだよな、と思う。
思い出した本とか映画とか
鈴木涼美さんの本(とりあえず1冊)
身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論 (幻冬舎文庫)
- 作者: 鈴木涼美
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2016/12/06
- メディア: 文庫
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映画『スリー・ビルボード』の予告
森達也さんの死刑に関する本
エヴァンゲリオンの劇場版。
『攻殻機動隊』
(了)