FRYN.

ラジオ、映画、本、音楽、服、食事、外国語学習、など趣味の記録。Twitter : @fryn_you

菊地成孔『あたしを溺れさせて。そして溺れ死ぬあたしを見ていて』

菊地成孔『あたしを溺れさせて。そして溺れ死ぬあたしを見ていて(ヴァイナル文學選書)』東京キララ社、2018年。

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新宿でしか買えない本。

 ジャズミュージシャンの菊地成孔を知ったのは、TBSラジオ菊地成孔の粋な夜電波」だった。最初、姉がこの番組を聞いていて、面白いよ、と教えてくれて、自分も聞き始めた。

 妖しくカッコいい前口上、AMとは思えないような選曲、菊地成孔の与太話、思わず吹き出すラジオコント、時に耽美的で、時に温かいラジオドラマ、当時のTBSの番組には全くなかったオリジナリティに、惹きつけられて、ヘビーリスナーとは言えないけれど、よく聴いた。

 菊地成孔はジャズミュージシャンだけど、多彩な人で文章も書ける。たとえば、映画評も書いていて、ジャズドラマーを描いた「セッション」をめぐって、映画評論家の町山智浩とネット上で論争したのは知ってる人もいると思う。そんな菊地が官能小説を書いた、と知ったのは、それが読書会の課題本になったからだった。次の読書会で読むのは、この本に決めた。

 ところが、Amazonで検索しても、楽天Booksで検索しても、hontoで検索しても、この本が出てこない。どうやら、新宿の限られた店でしか売っていないらしい。早速、新宿の紀伊国屋書店で購入して、驚いた。普通の本のように綴じられておらず、ビニールに入って売られていたからだ。まるで、昔売られていたという、ビニ本みたいだ。

 タイトル通り、この本は溺死フェチのカップルの話である。黒人ハーフの日本人・ダンと、キャバクラ嬢の葉子は、職場での会話がきっかけで、お互いが溺死フェチだと知り、溺死プレイに耽溺していく、そんな話。

 全部で30ページほどしかなく、読後感は小説を読んだというより、菊地成孔のラジオドラマを聞いた感じに近い。内容も、ヤマもオチもイミもないし、官能小説の目的である、ヌキどころ、も別にないので(少なくとも自分には)、この小説は文章とその雰囲気自体を味わうものだろう。

 描かれる溺死フェチの描写は妙にリアルで、性行為というより拷問に近い。もしもこの本が広まったら、男性から女性に対する加害を肯定するファンタジーだ、なんて怒る人も出てくるかもしれない。まあ、発売の規模からしてないと思うけど。

 溺死フェチについて、少しネットで検索してみたら、そういう人はいるようで、SMの延長としてプレイをしている人が多いらしい。自分は、溺死プレイなんて怖くて(この本を読んでる間も怖かった)、動画も観たくないので、深く調べなかった。

 他人への暴力を肯定したくないけど、溺死プレイみたいな他人への加害行為(当事者はどう感じているかわからない)にしか興奮できない人は、これからどんどん、生きづらくなるだろうなあ。特に、男性から女性への暴力を描くことがどんどん、センシティブになっていくこの状況で、溺死プレイに限らず、レイプとか、暴力の介在した性行為を描いたものは、規制が進むだろうから。

 しかし、「正しいエロ」「正しいセックス」なんてあるのかなあ、とも思う。もちろん、同意のないセックスはレイプだし、子供を作らないなら避妊だってした方がいいに決まってる。ただ、セックスやエロは、どこか後ろ暗いところがあるから、セックスやエロなのだという感じもするし、愛の結晶としての「正しいセックス」「正しいエロ」しかない世界というのも、どこか窮屈な感じもする。何度も言うけど、だからと言って、暴力を肯定しているわけではないし、過激な暴力的なセックスを描いたコンテンツを全て解禁すべき、と言ってるわけではない。最近読んだ、『欲望会議』に引っ張られて、話が本とずれてしまった。

 ちなみに、この本には、菊地成孔を少し知っている人なら、分かる話の元ネタがいくつかある。例えば、ダンが罹ったパニック障害は、菊地自身がかかっていたものだし、それを精神分析で直したというのも、彼自身の話だ。さらに、キャバクラにやってくる話のうまいカリスマというのも、菊地自身の話。以前ラジオで菊地は、キャバクラで仕事の話になると、おにぎりのパッケージを全部作ってるとか嘘をついて、話を盛り上げるのが得意だ、とラジオで話していた。

 とりとめもない感想になった。菊地成孔のファンで、彼のラジオドラマが好きだった人などは、読んで損はないかなあと思う。ただ、ヤマもオチもイミも無い小説だし、「こんなのに1000円も払いたくないわー!」という人は読まない方がいい。

 

菊地成孔の本など

「ヴァイナル文學選書」について

tokyokirara.com

 

2018年に終わってしまった「粋な夜電波」の本。正規の方法で、番組を聞けなくなった今、どんな雰囲気のラジオだったのか気になる人はぜひ。

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇

 
菊地成孔の粋な夜電波 シーズン6-8 前口上とコントの爛熟期篇

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン6-8 前口上とコントの爛熟期篇

 

 

菊地成孔による映画評の現時点で最新のもの(たぶん)

菊地成孔の欧米休憩タイム

菊地成孔の欧米休憩タイム

 

 

 菊地成孔大谷能生による東大でのジャズ講義をまとめた本。菊地のラジオを熱心に聞いていた大学時代、教授が選んだ本のコーナーに、これが置いてあって、かなり嬉しかったのを覚えている。

 

(了) 

読めばモテる!恋愛に関する本のまとめ

恋愛に関する本が好きだ。

 

・・・いや、好きというのは憚られる。でも、恋愛に関する本をかなり、読んだという自覚はあって、整理したら、けっこうな数になっていた。中には、前から感想をまとめたいと思っていたし、いい機会なので、簡単なまとめを書きました。

 

題して、

 

「読めばモテる!恋愛に関する本のまとめ」

 

※意外と読んでた、恋愛に関する本f:id:fryn:20190104075140j:plain

 

以下、簡単な感想。紹介の順番は基本的に自分が読んだ順番です。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊国屋書店、2010年。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

大学2年の時に授業で読んだ。その授業では、先生が用意した文献リストから、一冊選んでレポートを書く課題が出された。そこで選んだのが、エーリッヒ・フロム『愛するということ』 だった。

 現代は The Art of Loving 、直訳すれば、「愛の技術」。フロムによれば、愛は快感や経験などではなく、習得するべき「技術」である。愛されるのを待っているのではなく、自分から積極的に学んで習得しなくてはいけない。

 この「愛は技術である」という発想が、生まれてこの方、彼女がいなかった当時の自分には、かなり衝撃的で一気に読んだ。

 

このように二人の人間は、自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。*1

 

互いに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さだと思い込む。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているに過ぎないかもしれないのだ。*2

 

これらの記述だけでも、1956年に書かれたとは思えない新しさがある。すこし難しい所もあるけど、訳も読みやすい。目からウロコの記述が沢山ある。

 ちなみに、当時の自分は、この本を読んだことで、恋愛に関して頭でっかちになってしまい、うざかっただろうなあと思う。そりゃ彼女もできない。本が素晴らしくても、読者がそれを生かせるかは別問題だということですね。

 

 

二村ヒトシ『すべてはモテるためである』イーストプレス、2013年。

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

『愛するということ』から2年後、紀伊国屋書店で「これは単なるモテ本ではない。哲学書だ!」というポップと共に、この本が平積みされているのを見かけて、手に取った。哲学書だなんて、ずいぶん上から目線じゃないか、なんて思ってパラパラとページをめくるとまた仰天、そこには、太字で、

 

なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルいからでしょう。*3

 

 なんて挑発的な一言が。おい、マジかよと、そのまま購入して帰りの電車ですぐに読み始めた。恋愛に関するマニュアル本なんて、読んでもモテないし、キモチワルイし、意味がないと考えていたので、モテに関する本を買ったのは、初めてだった。

 この本が面白いのはマニュアル本の形をしながら、実は「ちゃんと自分と、相手について考えましょう、考えてないからあなたは気持ち悪いんですよ」という反マニュアル本であること。モテること(=自分にとっての幸せ)が、どういうことなのか、自分で考えるように読者に促しながら、どうすれば、気持悪くならず、人とつながれるのかを説いていく。男性向けだけど、女性も、読んでほしい。

 男性向けに書かれていることもあって、「インチキ自己肯定」のくだりとか、かなり厳しいことも言っているけど、それは作者が男で、この本も自分自身に向けて書かれたからだろう。*4 この後に、二村ヒトシの本にはまって、何冊か読むことになるんだけど、今でもこの本が一番好き。

 

 最後に、好きな個所の引用を。

 

 ところで。

 あなたや僕が、女性に「モテたい」と思うのは(あるいは「やりたい」と思うのは)どう考えても、ただ単に性欲のせいだけじゃ、ないですよね。

 きっと人間は、他人から「あなたは、そんなにキモチワルくないよ」って保証して欲しいんです。*5

 

上記の個所は、不覚ながら、読んでいて泣きそうになりました。

 

二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』イーストプレス、2014年。

『すべてはモテるためである』が男性に向けて書かれた本なら、その女性版。 しかし、男性にもお勧めできる本。

 どうして、あの人は、自分を愛してくれない人―浮気をしたり、やたら束縛したり、極端な話、暴力をふるうような人―を好きになってしまうのかなあ・・・なんて思ったこと、ありませんか。この本は、それを「心の穴」という例えを使って説明する。

 人は育つ過程で、親から心に穴をあけられる。そして、自分に空いた心の穴を受け入れられないと、人は、それを埋め合わせるために、恋をする。時には、まるで、ダメだと思う自分を罰するために(そのように周りからは見える)、自分を大切にしてくれない人ばかり好きになってしまう。

 この本は、DVを受けた友人がいることもあって、読んでいてかなり怖かったし、自分も自己肯定感が低い方なので、「心の穴」という考え方は実感があった。あと、恋人に恋するのではなく、恋人を愛することが大切だ、という記述には、先にあげた『愛するということ』と近いものを感じた。

 ちなみに、この本には、単行本もあるけど、買うなら断然、文庫の方がオススメ。文庫には対談が付いていて、特に、カウンセラーの信田さよ子との対談が良い。この対談では、二人が話すうちに、二村自身の心の穴と、欺瞞みたいなものが明らかになってしまう。この対談を載せなければ、恋愛のカリスマとしてふるまうことが出来たと思うんだけど、それでも、ちゃんとこれを載せたところに、誠実さを感じた。

 

 

大泉りか『もっとモテたいあなたに』イーストプレス、2013年。

二村ヒトシの本を読んだ後、いかにもマニュアル本みたいなやつも読んでみたいな~と思って手に取ったのがこの本。巻末には、大泉りかと二村ヒトシの対談も付いている。女性が書いた本だからか、女性をタイプ別に分けて書いてある分析とか、非常に面白いし、笑えた。 

 

 

ジェーン・スー『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』ポプラ社、2013年。

 TBSラジオラジオパーソナリティを務める、ジェーン・スーの最初の本。当時、ジェーン・スーは「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル 」で宇多丸の大学自体の後輩として登場し、あまりにも面白かったので、本も買ってしまった。この本では、女性のプロポーズされない理由が101個も書いてあり、たとえば、

 

014 仕事でヘトヘトな彼を、休日のIKEAに連れて行ったことがある

053 ミネラルウォーター以外の水を飲まない

079 『アルマゲドン』を見て泣いている彼を、バカにした

 

などなど、見出しだけで面白いし、内容は、笑いと冷や汗の嵐。

 ただ、この本は、恋愛は前提になっており、彼氏/彼女ができなくて悩む人を対象にはしていないので、モテ本とは少し違う。しかし、彼氏/彼女が出来たら、こんなことが待っているのか、と予習をしたり、働く女性の感覚を知りうる一冊になると思う。何より、読みやすくて、面白い。

 ちなみに、この後、スーさんがご自分の相談番組を持つことになり、自分も二度にわたって、相談を受けていただくという嬉しいことになるなんて、この本を買ったときは思いもしなかった。単なる自慢です。ごめんなさい。

 

 

宮台真司 編著『「絶望の時代」の希望の恋愛学』株式会社KADOKAWA、2013年。

「絶望の時代」の希望の恋愛学

「絶望の時代」の希望の恋愛学

 

 

 言わずと知れた、社会学者・宮台真司が性愛を語った本。二村ヒトシの本を読んでいたら、姉がこれも面白いよ、とすすめてくれた。  宮台真司はラジオで知っていたけど、その本は読んだことがなかったので、読むのに苦労した。特に第1章は難しい。

 このまま難しかったらどうしよう、と冷や冷やしたけど、第2章以降は、宮台真司とナンパ師を交えたトークイベントの模様を、書き起こしてまとめたものなので、読みやすい。ナンパ師の話は、ナンパなんてやろうと思ったこともなかったので、新鮮だった。特に、ナンパ師だった高石宏輔は、カウンセリングやコミュニケーションに関する本を出していて、それも読んだので、そのうち、感想を書きたい。

 それまで読んだ本は、個人の内面に焦点を当てたのに対して、宮台真司の本は恋愛の背後にある社会のことを語る。最初は「昔はよかった」「俺たちはモテていた」と自慢をしているように感じて、肌に合わなかったけど、「感情の劣化」など、物事を分析する視点を得られたのは良かったし、恋愛の外側にある社会というのを意識するきっかけにもなった。

 ちなみに、あとでウェーバーを読むときに、この本を読んだのが役に立った。

 

 

宮台真司『中学生からの愛の授業 学校が教えてくれない「愛と性」の話をしよう』コアマガジン、2015年。

基本的に、 『「絶望の時代」の希望の恋愛学』と言いたいことは同じだと思うけど、こちらの方が、さらに社会に焦点を当てている。また宮台真司が中学生に向かって話をするという形式で進んでいくので読みやすい。
 
 

宮台真司『きみがモテれば、社会は変わる。―宮台教授の〈内発性〉白熱授業』イーストプレス、2012年。 

きみがモテれば、社会は変わる。 (よりみちパン!セ)

きみがモテれば、社会は変わる。 (よりみちパン!セ)

 

 これは、モテ本ではない。「モテ」というのは読者を釣るための釣り針(フック)にすぎない。モテをフックにした、現代日本の問題分析と、宮台真司なりの 処方箋。宮台によれば、損得にこだわらず、他者を感化するような内発性を持った人間になれば、自然とモテるし、社会も結果的に良くなる。結構難しいので、モテだけに興味がある人は読む必要はないけど、上の2冊と合わせて読めば、理解が深まるはず。

 

 

 川崎貴子二村ヒトシ『モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談』講談社、2016年。

モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談

モテと非モテの境界線 AV監督と女社長の恋愛相談

 

二村ヒトシと、人材コンサル会社社長・川崎貴子の共著。雑誌で連載されていた、二人の対談と、読者のお悩み相談が載っている。特に、読者のお悩み相談が面白い。ちなみに相談者は

 

いい人なのに女運がやたらと悪いA君 32歳

モテているのに幸せになれないB君 31歳

美人との結婚を夢見るCくん 25歳

潔癖症の中年Dさん 40歳

 

以上の4人。年齢や、抱えている問題が本当に絶妙で、男性は読めば自分と似た問題を発見できると思う。個人的にはCくんと、Dさんの相談が読んでいて、冷や汗かいたし、色々と耳が痛かった。

 

 

川崎貴子『愛は技術 失敗しても女は幸せになれる』KKベストセラーズ、2016年。

愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。

愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。

 

 

結婚したい女子のための ハンティング・レッスン

結婚したい女子のための ハンティング・レッスン

 

  『モテと非モテの境界線』を読んだ後、川崎貴子の単著も読んでみようと思って、手に取った本。タイトルは、エーリッヒ・フロム『愛するということ』へのオマージュ。

 内容は非常にロジカルで、順を追って、結婚への道が具体的に説明されている。精神面に着目もしつつ、具体的な方法論にも触れているのがすごい。特に、第3章の「毒になる男を捨てる技術」の具体性はすごい。タイプ別に要注意な男の具体例を挙げていて、なんでこんなにわかるの、という感じ。全体的に、働く女の人への厳しくも優しい眼差しにあふれている。

 ちなみに女性向けの本だけど、男性も読むべき。働く女性の視点が分かるっていうのは勿論、愛されるのを待っているのではなく、自分から積極的に相手を愛するためにやるべきことが書かれていて、非常に勉強になる。

 『結婚したい女子のためのハンティングレッスン』は『愛は技術』の実践編という感じ。怖い表紙とは裏腹にちゃんとした内容。ページ数も少ないし、こっちから読んでもいいかなと思う。

 

 水野敬也『「美女と野獣」の野獣になる方法』文芸春秋、2014年。

「美女と野獣」の野獣になる方法 (文春文庫 み 35-2)

「美女と野獣」の野獣になる方法 (文春文庫 み 35-2)

 

 

スパルタ婚活塾

スパルタ婚活塾

 

  モテや恋愛に関する記事を多数書いているブロガー、ファーレンハイトの文章を読んでいて知ったのが、水野敬也。『「美女と野獣」の野獣になる方法』は、まさにイメージしていたTHE マニュアル本(のパロディ)という感じ。(ちなみに、『スパルタ婚活塾』はその女性版で、ドラマ化もされた。)

 「恋愛五大陸理論 」に始まって、さまざまなモテるための理論が展開されていく。中には、どこまで真剣なのか分らない、ギャグみたいな理論もあり、読み物としても、笑えて面白い。【執着の分散 理論】【うわっつらKINDNESS 理論】【日本代表 理論】とか本当に笑った。

 ふざけているようでいて、実はまじめな本であり、「最後に」で語られる作者のエピソードは、見た目にコンプレックスのある人は感じるものがあると思う。

 

 桃山商事『生き抜くための恋愛相談』イーストプレス、2017年。 

生き抜くための恋愛相談

生き抜くための恋愛相談

 

  大学時代から1000人以上の女性の恋愛相談を聞いてきた、恋バナ収集ユニット・桃山商事の恋愛相談を、ジャンル別にまとめた本。恋愛相談を、場合分けや、分かりやすいチャート図を使いながら、論理的に回答していく。漫画家の海野なつみさんが「平匡さんが描いているのかと思いました」とコメントを寄せているのも納得できる。

 相談をいくつかあげると、

 

誘っても曖昧な態度の彼・・・これって脈あり?脈なし?

好みじゃない人と「ひとまず付き合ってみる」はアリ?

いつも同じパターンで失恋してしまうのはなぜ?

デートしても友達どまり・・・色気とムードの正体とは?

イケメン好きでもないのに・・・「妥協しろ」と言われるのはなぜ?

 

 こんな感じ。男性にも当てはまる悩みばかり。ちなみに、第3章は女性から見た男に関する相談になっており、男性が女性と付き合う上で気を付けるべきことを考えるヒントにもなる。「男の人ってなんですぐ不機嫌になるの?」の相談に乗っている図「便利!」は笑うとともに、冷や汗が出る。

 

 

宮台真司二村ヒトシ『どうすれば愛し合えるの: 幸せな性愛のヒント』KKベストセラーズ、2017年。

どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント

どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント

  宮台真司二村ヒトシの対談本。もともと二人は、対談イベントを開催していて、その内容がまとまって本になったもの。二人の対談には興味があったので、自分も何度か、足を運んだ。

 肝心の本の内容は、難しい。目次をざっと目を通すと、とっつきやすそうに見えるが、難しい。ポップな表紙と、キャッチーなタイトルとは対照的に、かなり難解な本。感触としては、『「絶望の時代」の希望の恋愛学』の第1章が、最初から最後まで続く感じ。

 二村の話していることはまだ何となく分かるんだけど、宮台の話は、宮台節が炸裂という感じで、社会や宗教に関する学術的な用語が縦横無尽に飛び交う。社会学などの素養がある程度ないと、通読しても、理解するのはなかなか難しいと思う。自分は、この本の内容をすべて理解できた自信がない。二人のトークイベントよりも高度で難解な内容になっていると思う。

 ただ、いくつか面白いと思うアイデアがあって、個人的には「言葉の自動機械」というのが、一番覚えておきたい。僕の理解だと、言葉の自動機械とは、人の表面的な言葉(あるいは態度)に、機械的に反応してしまうこと。

 例えば、卑近な例でいえば、SNSで上手くいっている友人の書き込みを見ると、嫉妬してしまってみるのを止められないとか。もっと深刻な例でいえば、中国や韓国という言葉を見ただけで、反日だ、と決めつけてしまうネット右翼とか。要するに、感情の発露が目的化していて、それを自分でコントロールできない状態のこと。

 これは二村ヒトシの「心の穴」にも似た話で、自分の心の穴を知って、それと向き合っていこうというのは、宮台的に言い換えれば、自分がどういう状況で、どういう機械的な反応をしてしまうのかをメタ的に理解して、ある程度コントロールできるようにしよう、少なくとも、そのことを理解しておこう、ということだと思う。

 ちなみに、この本が難しいので誰かと話したいと思ったら、読書会が開かれていたので参加するきっかけになった。

 

 トイアンナ『モテたいわけではないのだが ガツガツしない男子のための恋愛入門

イースト・プレス、2018年。

 この本の発売に合わせて、ネットに載っていた作者のインタビュー記事が面白かったので購入した。記事を読んだときは、作者が外資系企業のマーケティングをやっていたこともあって、ロジカルで面白い分析をするなあと思ったのだけど、本ではそれに加えて、ネットスラングやオタクネタが盛り込まれていて意外でおもしろかった。

 内容は ファッション→メンタル→コミュニケーション→深い付き合い と順を追って進んでいく。ファッションサイトでの連載、「メンズファッションプラス通信」を本にしただけあって、ファッションに関しては、写真を交えて具体的に書かれている。

 コミュニケーションに関するところも面白く、自分は、この本で「クソリプおじさん」という言葉を初めて知った。クソリプおじさんとは、ツイッター若い女性などを中心にうざいリプライなどを飛ばすユーザーを指すネットスラングらしく、言い得て妙だと思った。

 

 最後に

 はっきり言って、恋愛に関する本を読んだところで、モテるようにはなりません。自分は、社会人になってから彼女はできたけど、本を読んだから出来たわけではないし、結局別れたので、そういう意味では、読んだ本を生かせていない。

 ただそれでも、恋愛に関する本は、おもしろい。作者の個性が強く出るし、誰もが悩むことだから、自分に引き付けて読みやすい。ここにあげた本は、おもしろいし、役にも立つので、気になったら、ぜひ読んでみてほしいなーと思います。

【番外編】※本に関連するブログや動画など

文化系トークラジオLifeで二村さんが出演した回。最後の方に、桃山商事の清田さんも出てくる。

文化系トークラジオ Life: 2009/02/22「草食系男子の本懐」(二村ヒトシほか) アーカイブ

 

 

水野敬也を知るきっかけになったブログの記事。このブログ自体が面白いので、ぜひ。 

www.fahrenheitize.com

 

『どうすれば愛し合えるの?』につながったトークイベントの動画。 


宮台真司×二村ヒトシ講演会「希望の恋愛学を語る~男女素敵化計画」2014 02 14

 

 

川崎貴子さんと二村ヒトシさんのトークイベントの動画。


川崎貴子×二村ヒトシ対談 愛は技術~なぜ、男と女は、愛ですれ違うのか~

 

 (了)

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國分功一郎『スピノザ『エチカ』(100分 de 名著)』

 國分功一郎スピノザ『エチカ』(100分 de 名著)』

スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)
 

 

読書会の課題本、スピノザ『エチカ』が難しすぎて、自分には理解できないことは想像に難くないので、まずは解説本から読んでみた。難しい本は解説本から読みましょう、というお決まりのパターンです。

 

國分功一郎は、スピノザの哲学をありえたかもしれないもう一つの近代を示す哲学だと言っており、読む前はなんのこっちゃと思っていたけれど、読み終わったあとは、それがしっくり来た感じ。*1

 

この本を読むだけでも、自分の考え方が、知らず知らずのうちに近代に作られた物の見方(考え方)に縛られていて、それを自明のものして受け入れているか再認識させられる。そして、スピノザ『エチカ』を読むと、そういう考えがより深まりそうだなあと、読むのが楽しみになりました。(もう一冊くらい、入門書を読む予定だけど・・・)

 

スピノザ『エチカ』を読むことで、自分が当たり前に考えている物の見方(考え方)を相対化し、人によっては、ある種の生きづらさみたいなものから解放されるきっかけにもなるんじゃないか、なんて予感がする。

 

以下、気になったところの抜粋とメモ。

 

哲学者とは、真理を追究しつつも命を奪われないためにはどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人です。心理は必ずしも社会には受け入れられないし、それどころか権力からは往々にして敵視されるのだということを十分に理解しつつ、その上で学問を続けるのが哲学者なのです。*2

 哲学者は夢見がちな人々などではなく、自分で自分の身を守るようなたくましさを持っていたという話。さらにスピノザが釣り好きで、自分の護衛の兵士を飲みに連れて行って、釣りの話で彼らを夢中にさせた、というエピソードも素敵。

 

すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは髪を自然と同一視しました。これを「神即自然」といいます*3

「神は無限である」というスピノザの「汎神論」に関する記述。神は無限で、外部がない、という話は、マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』を思い出した。マルクス・ガブリエルは、もし世界が存在していたら、その外側が存在してしまうはずで、という話をしていた。そして、世界は存在しない、ただし、世界以外の全ては存在する、という命題を本の中で提示していたのだけど、忘れているので、読み直さないといけない・・・汗。

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

 

自分の外側にある原因(ねたみの対象)に自分が強く突き動かされてしまっているわけですから、自分の力を十分に発揮できない、つまり活動能力が低下しているのです。*4

スピノザの感情論について。自分が誰かをねたんでいるとき、自分の感情が妬みの対象によって支配されてしまっているので、自分の力を十全に発揮できていないということは、誰もが実感できることなんじゃないかと思う。あとのスピノザの自由に関する話にもつながる記述。

 

まず最初に見ておきたいのが、ラテン語で「コナトゥス conatus」というスピノザの有名な概念です。あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向を持った力」と考えればいいでしょう。*5

あらゆるものが持っている、そのものの、性質。國分さんは、恒常性(ホメオスタシス)のようなものだと捉えると分りやすいと言っている。

 

おそらく優れた教育者や指導者というのは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押し付けるのではなくて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人なのだと思います。*6

 スピノザ的教育論。エイドスとは、見た目のこと。スピノザ的に考えれば、見た目だけを見るのではなく、生徒や選手の本質的な部分を見て、それぞれの選手に応じた指導をするのが大切。理想的だけど、公立の学校に限っていえば、今の日本では教員に対して生徒の数が多くて、生徒一人一人のコナトゥスを見てあげられるような教育にはなっていないと思う。

 

神は自然と同一視されるのであり、その自然は宇宙と呼んでもよいと言いました。実は、私たちは神の中にいるだけではありません。私たちは神の一部でもあります。万物は神なのです。*7

 

私たちを含めた万物は、それぞれが、神が存在する様式であると考えられます。*8

 

ちょうど副詞が動詞の内容を説明するようにして、私たち一人一人は神の存在の仕方を、説明しているというわけです。*9

 スピノザの用語と、汎神論に関する解説。神は宇宙・自然であり、その外側はなく、人間も含めた万物もその中にいる。だから、神は自然であり、万物である。人間やそれ以外の万物も、神の一部である。

 万物は色々な在り方で、神の力を表現している。たとえば、太陽は光・熱を発し、地球に影響を及ぼすし、水は植物を育てたり、川になって流れて地形を変えたりする。そのようにして、ありとあらゆるものが神を表現している。

 副詞のくだりは、神が名詞や動詞のようなものだとすれば、万物はそれを飾る副詞のようなものだ、という話。副詞はそれだけでは存在できないけど、動詞を説明することで存在することが出来る。面白いたとえだと思った。

 少し気になるのは、もし万物が神の表れだとすれば、この世に存在する「悪」(この悪も人間が考えることだから、神にとって善も悪もないのかもしれない)は、どういうことなんだろうか?たとえば、殺人を犯す人間も神の表れだとするなら、それは聖書の教えと矛盾しないのか気になった。

 ちなみに汎神論といえば、宮台真司が、TBSラジオ「デイキャッチ」のボイスの中で解説していた。ここでも、マルクス・ガブリエルの話が出てくる。

www.tbsradio.jp

 

デカルトは精神と身体を分け、精神が身体を操作していると考えました。巨大ロボットの頭に小さな人間が乗って操縦しているイメージですね。それに対しスピノザは、精神が身体を動かすことはできない、というか、そもそも精神と身体をそのように分けること自体がおかしいと考えました。*10

 

精神と身体で同時に運動が進行すると考えたのです。これを「心身平行論」と言います。*11

 精神が身体を操縦している、というデカルトの「心身二元論」に対して、スピノザは精神と身体は不可分であるという「心身平行論」を唱えた。ずれた例えかもしれないけど、運動をしていると身体の状態が精神に影響を及ぼすということはよくある。ランニングにおけるランナーズハイみたいに。

 あるいは、宮台真司は、オウム真理教が信者を勧誘するために催眠の技術を使い(身体的な刺激)、神の声が聞こえるような体験をさせたということを話していた*12。また、カウンセラーの高石宏輔は、コミュニケーションがうまくいかないのは、身体の緊張、心理的な緊張につながっているからだ、と話していた。これらを考えると、心身平行論はリアリティがあると思う。

 

 

与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。*13

 

必然性に従うことが自由だと言っているのです。ふつう、必然と自由は対立します。必然なら自由ではないし、自由なら必然ではない。ところが、スピノザはそれが対立するとは考えません。むしろ、自らの必然性によって存在したり、行為したりする時にこそ、その人は自由だと言うのです。*14

 

魚を陸にあげれば死んでしまいます。人間の身体や精神にも、これと同じような必然性があるということです。*15

 

人は生まれながらにして自由であるわけではありません。人は自由になる、あるいは自らを自由にするのです。*16

 

私たちは「身体が何をしうるか」を知らないからです。*17

 

自由の定義を読み解く上での二つ目のポイントは、自由の反対概念が「強制」であることです。*18

 

強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押し付けられている状態です。*19

 

この青年は親に対して直接に復讐を果たすことができない。だからその代わりに自分の心身を痛めつけている。そのような状態にある時、この青年はかつて受けた虐待という外部の圧倒的な原因に、ほぼ自身の全てを支配されています。*20

 スピノザの自由について。スピノザによれば、人は自分の持つ必然性(その人自身の性質、ある意味で制約)にしたがって、自分の力を発揮できるときに、自由である。反対に、自分の本質が発揮できないとき、強制されていて、自由ではない。

 たとえば、最後に引用した青年は、親から痛めつけられて育ったせいで、家を捨てて軍隊に入り、自分をわざわざ過酷な状況に自らを追い込む。このとき、青年は親への復讐に取りつかれて、自分の本質を発揮できずいるため、自由ではない。

 興味深いな、と思うのは、スピノザが強制という話をするときに、「必然的である、あるいはむしろ強制される」と、「必然的」を「強制」に言い換えていること。*21 偶然だと思うけど、自由の条件である必然性の裏返しが、強制であるともとれないか。必然性は、人を自由にもするけど、受け入れることが出来なければ、人を強制された状態もする、とは読めないか(誤読だろう)。

 個人的に、必然性という話を知ったときに連想したのは、二村ヒトシの「心の穴」だった。二村は、人間の性質を、成長過程で親に開けられた「心の穴」の表れだと言った。そして、その心の穴は、人の魅力にもなり、欠点にもなると。そして、自分の心の穴と向き合えれば、自分を傷つけるような人に恋してしまうような状態から抜け出すことが出来ると。*22二村の心の穴と、スピノザの必然性は似ていると思う。

 

 

こう考えてくると、スピノザの自由の概念は、どこかで原因という概念と結びついていることが分かります。*23

 

神の変状であるという意味では、私たちの存在や行為は神を原因としています。私たちは原因ではありません。*24

 

神という原因は、万物という結果において自らの力を表現していることになります。*25

 

先の原因/結果の概念を用いるならば、この定義を次のように言い換えられることになります。私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である*26

スピノザの能動/受動について。スピノザは能動/受動を行為の方向で表さずに、行為の原因が何かに注目した。そして、人は自分が自分の行為の原因になっている時、能動である、と考えた。國分功一郎はこれを、カツアゲの例を使って説明している。カツアゲの被害者は、自分から財布を出しているように見えるけど、加害者に支配されて財布を出しているので、能動的ではない。うまいたとえで、すごくわかりやすい。

 

 

スピノザの自由とは能動的になることであり、能動的であるとは行為において自分の力が表現されていることでした。したがって、スピノザの自由とは自発性のことではありません。*27

 

私たちは自由の話をすると、すぐに「意志の自由」のことを考えてしまいます。そして人間には自由な「意志」があって、その意思に基づいて行動することが自由だと思ってしまうのです。*28

 

スピノザが言っているのは、確かに私たちはそのような意志を自分たちの中に感じ取るけれども、それは自由ではない、自発的ではないということです。つまり、意思もまた何らかの原因によって決定されている。*29

 

身体の各部分は意識からの指令を待たずに、各部で自動的に連絡を取り合って複雑な連携をこなしています(これを身体内の協応構造と言います)。*30

 

また現代の脳神経科学では、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうという意志が意識の中に立ち現れてくることが分かっています。意志はむしろ、運動プログラムが作られたことの結果なのです。*31

 スピノザの意志・意識について。私たちの感じる意志通りに動くことが自由なのではない、とスピノザは言う。意志自体も他の原因によって生み出されたものにすぎない。この話は、スピノザが「心身二元論」を否定して「心身平行論」を主張したということにもつながると思った。あと、人がある行為を実行したと意識するより前に、脳から信号が出ているという「ユーザーイリュージョン」のことも思い出した。

 また、この後に出てくる依存症や不登校の話も、示唆に富んでいた。意志を起点に自由を考えると、アルコール依存症の患者や、学校行けない児童のやっていることは、彼らの意志が弱いからだという、ある種の自己責任論に陥ってしまう危険性があるというのは、本当にそうだと思う。

 

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

 

 

(了)

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*12:デイキャッチ 2018年7月26日

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*21:p.68

*22:二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」をすきになるのか』イーストプレス、2014年

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千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里『欲望会議―「超」ポリコレ宣言』

千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里『欲望会議「超」ポリコレ宣言』角川書店、2018年。

 

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 

 2019年1月1日(火)読了。哲学者の千葉さん、AV監督・文筆家の二村さん、彫刻家・文筆家の柴田さん、による対談本。対談本なので、一つの一貫した主張があるタイプの本ではなく、三人がそれぞれの気になっていることを話すことで、それぞれの章ごとにゆるやかにテーマが立ち上がるタイプの本。目次はこんな感じ。

 

第1章 傷つきという快楽

第2章 あらゆる人間は変態である

第3章 普通のセックスって何ですか?

第4章 失われた身体を求めて

第5章 魂の強さということ

 

的外れかもしれないけど、この本のライトモチーフは、人が複雑さに耐えられなくなっていることかな、と思った。どんどん社会が複雑になっていく中で、人はどんどん、その複雑さに耐えられなくなっている。

 

どうすれば、政治的に正しいのか?どうすればマイノリティを傷つけないのか?あるいは、マイノリティを傷つけてるのはだれなのか?僕たちは正しい答えが知りたくて仕方ない。答えなんて無いかもしれないし、あるいは答えはこれから変わるかもしれないけど、そこに耐えることもできない。

 

あるいは、差別されたマイノリティを見たとき、そこに自分の傷を投影して、マイノリティに安易に共感してしまう。そして、そのマイノリティの敵を、自分の敵として糾弾してしまう。本当は自分の置かれた状況とマイノリティの置かれた状況は違うかもしれないのに、その違いを捨象して自分と同じだと思ってしまう。

 

複雑さに耐えろと、この本は言っている気がする。自分の中に湧き上がる未知の感情を安易に喜怒哀楽に分類したり、他者に投影したりせずに、まずは自分で1人で受け入れろと。一見矛盾するようなことを内包する事態を単純化するのではなく、それ自体として見つめて考えてみろと、言っている気がした。

 

以下、おもしろかった所の引用とメモ

 

柴田 でも、実際にはマックスのような男なんていなくて、下心がある男の方が女に優しいということをそういうフェミニストは見えてないんじゃないですかね。三次元の女に無関心な男性オタクやゲイの、とりたてて女にやさしくないマイナス方面での男女平等な態度がミソジニーとして批判されるたびにそう思います。(p.66)

男の女性へのやさしさは下心(付き合いたい、セックスしたい)を基づいていることが多い。だから、不器用で女性をエスコートできない男性よりも、女性の扱いが上手いチャラいヤリチンの方がモテることが多い。でも、それはヤリチンを批判したい側は、受け入れたくない。なぜなら、往々にして、ヤリチンは女性をモノとして見下しているから。そういうヤリチンの正しくない優しさが女性に受け入れられるとは思いたくない。

 

二村 敵を発見してキーってなる、怒りにとらわれることはオーガズムですから。それは女性だけじゃなく、そういうことをやっている男性もいますよね。古い傷の上に新しい傷を刻むような、めちゃめちゃ苦しい、苦しいからこそ麻薬的なオーガズムだと思いますよ。*1

SNS上で敵を見つけて炎上している人は発情している、という柴田さんの話の流れから出てきた話。小さいレベルで言えば、自分の劣等感をあおるような、SNS上のマウンティングから目を背けられない人、もっと深刻なことなら、DV加害者とばかり付き合ってしまう人、この人たちはみんなある種のオーガズムを得ているということか。そういえば自分も、強烈に自分の劣等感を煽ってくる、鈴木涼美の本をつい買って読んでしまうし、読んでるときも、一体この感覚は何だろうと考えていたけど、オーガズムだったのか?

 

とにかく映画として面白いんです。いや、本当に、自分の立場に固執した論争をする前に、右も左も男も女もまずこの映画を観たらいい。それから改めて議論を始めれば、みんなもうちょっと建設的になるんじゃないか*2

映画『スリービルボード』に対する二村さんのコメント。この前で、白人男性警官を加害者、黒人を被害者として描く、映画『デトロイト』と『スリービルボード』を比較して、スリービルボードを複雑性を持った映画だと絶賛している。個人的にも『スリービルボード』は大好きだし、優れていると思うけど、単純さを求める人がこの映画を観て、果たして、この映画の複雑さを自分のものとして受け入れられるかは、疑問。自分の都合のいいところだけ、切り取って解釈してみてしまうような気がする。いや、そもそも、そういう人はこの映画は見ないか?だからこそ、みたらどうなるか気になるとも思う。

 

柴田 本当にマイノリティを支援するとなったときに、一番やっちゃいけないのは、マイノリティに憑依してしまうことです。たとえば、「黒人かわいそう」でも、本当の黒人の辛さが理解できるわけがないんですよ*3

映画監督の森達也が言っていたことを思い出した。死刑反対を唱えたときに、「殺人事件の遺族の気持ちがわからないのか」という賛成派はまさに、遺族に憑依している。その人が遺族当事者なら話は別だが、そもそも、殺人を受けた遺族の辛さは経験した人以外には理解できない。理解できないのに、理解できたかのように憑依して、炎上してしまうのは危うい。

 

千葉 いろいろな見方を言ったら確実なことが言えなくなるだろうという批判もわかるけれど、いまは逆に、物事にはいろいろな見方があるだろうという、すごく当たり前な相対主義を言わなきゃいけないんじゃないかという気がする。

二村 否定と肯定を同時に受け止められるというのが、さっきから言っている "強さ" ですよね。*4

複雑さを受け入れる強さを持て、という話。

 

だから時代全体が、身体を喪失しているんですよ。その中で身体を失ってしまった人間が右往左往している。セックスの喪失というのも、それぐらいマクロな視点で考える必要があるんじゃないかな。*5

攻殻機動隊』を思い出した。あの話では、人間が電脳を通じて、意識が直接ネットに接続していて、LINEのメッセージや通話のようなことを、スマホを取り出さなくてもすることができる。中には、身体を捨てて、意識だけをネットに移行する者も出てくる。ある種、SNSを通じて自分の意識をネットに放り出している自分も、攻殻機動隊の世界と大した差はないかもしれない。

 

柴田 SNS的な共感のつながりって、もう自他の認知がグチャグチャで、「私は子供のときにレイプされました」という人がいただけで、それを聞いた人は子供のときにレイプされていないにもかかわらず、「この傷は私のものである」となってしまう。自他の境界がなくて、もうスライムみたいに溶け出している。私は「もうちょっと自分に引きこもれよ」と思います。*6

液化する自我。劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』を思い出した。みんながみんな、オレンジ色の液体になってしまう。引き込もる、という表現が印象的。面白いのは、家に引きこもって、SNSばかりやっている人がいるとしたら、その人はSNSを通じてだれかと一体化しているわけで、引きこもっていない、ということになる。

 

 千葉 エンターテインメントは、単純に泣ければいい、驚ければいいというようなアトラクション的なものになっていく。「こういうことを言われたから傷ついた」というのは、今日では、無意識を受け止めて解釈するという過程をスルーして、たんに「こういうアトラクションは乗りたくない」ということになっているように思います。*7

人はすべてを快/不快の単純な刺激でとらえる動物になっていきつつあるのかもしれない。『スリービルボード』のような映画は、よくわかんないもの、として、一部のファン以外からは見られなくなっていくのかも。だから、愉快なエンターテイメントなのに、同時に、すごい複雑な感情を想起して観客に直面させるような映画はすごいと思う。韓国映画は『お嬢さん』が大ヒットしたけど、そういう部分があるんだと思う。羨ましい。日本だったら、是枝監督の『万引き家族』もそれに近いか。映画賞がある意味って、『万引き家族』がシネコンで上映されて、映画ファンでもない人が見に行くような機会がうまれることだよな、と思う。

 

思い出した本とか映画とか

 

鈴木涼美さんの本(とりあえず1冊)

 映画『スリー・ビルボード』の予告


アカデミー賞有力!映画『スリー・ビルボード』予告編

 

森達也さんの死刑に関する本 

死刑 (角川文庫)

死刑 (角川文庫)

 

 

エヴァンゲリオンの劇場版。

 

 

攻殻機動隊

攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

攻殻機動隊 (1) KCデラックス

 

 

『お嬢さん』劇場特別予告編



 

(了)

 

*1:p.67

*2:p.138-139

*3:p.161

*4:p.231

*5:p236

*6:p.262

*7:p.270